石巻 再生へ漕ぎ出そう

「政争の町石巻」。2021年4月25日に市長選挙

                                                                                              2020年10月                                                                                  ジャーナリスト相澤雄一郎

  私は2020年6月から相澤ブログを開設、東日本大震災後の亀山紘石巻市長をトップリーダーとする復興の現状を追跡してきた。大川小74児童の人災、疑惑の災害復興工事など取り上げた。
「石巻政争の町」についても書いた。私は1980年、昭和55年4月、地域新聞「石巻かほく」創刊の現地責任者として石巻市に赴任した。青木和夫さんが市長だった。黒須光男さんが宮城県県議で青木、黒須両氏の「A・K政争」が石巻政治を動かした。戦後の石巻復興に貢献した千葉堅弥市長を含めて書く。
2021年4月25日に石巻市長選挙が決定した。
3期任期満了の亀山紘市長は退任するのか。
亀山市長は震災復旧復興費1兆2千億円を国から交付され、参謀役の浅野亨石巻商工会議所商工会頭と組んでいくつかの疑惑が起きた。
黒須光男市議は2018年(平成30年)2月、新蛇田復興公営住宅建設費3億4千万円上乗せで市長を背任告発した。
仙台地検は平成31年4月、疑惑なしと不起訴処分したが、行政トップの市長の疑惑は仙台地裁民事部・中島基至裁判長担当で審議中だ。2021年1月18日午後1時10分から判決公判が行われるがどのような判決が下されるのか。判決は下されなかった。
 秋田県湯沢出身の菅義偉官房長官が第99代首相に就任したが、私は田中角栄首相時代に河北新報新聞記者として首相官邸で取材していた。人生を振り返るとご縁は様々だ。


 私は地域新聞「石巻かほく」を1980年(昭和55年)に創刊した責任者。三陸河北新報報社長6年間、ラジオ石巻社長9年間務めた河北新報の新聞記者である。本社で報道部長、編集局長、常務取締役などして地方新聞社のジャーナリストとして活動してきた。旧ソ連、中国、北朝鮮、アメリカなど取材した。
 石巻は世界3大漁場の三陸沖を抱え、豊かで多彩な歴史・文化のある太平洋に面した海の町だった。石巻に赴任した当時は合併前で1市9町をマイカー取材。女川原発1号機の建設中でしばしば女川町の現地に行った。
 私は1934年(昭和9年)9月9日、秋田市生まれ。満86歳。亀山市長と浅野亨石巻商工会所会頭が組み合った疑惑の実態をレポートする「病める海『海のまち』・闇」を2016年(平成28年)9月、東京のモッツコーポレーションから出版。平成18年(2016年)12月、肝細胞がんと診断され、仙台厚生病院で肝臓の3分の1を東北1の胆嚢、肝臓、膵臓の名医の摘出手術を受けた。手術だけで抗がん剤、放射線治療を受けず天然素材の、健康食品を毎日2,3服、水なしで舐めて服用。血液の免疫力高めて再発しないで生きてきた。誕生日の2020年9月9日に仙台厚生病院で近藤癌部長の診察を受けたが異常は全くなかった。
 平成29年3月28日の石巻市長選挙では私は黒須光男市議の選挙対策本部長を引き受けた。黒須さんは31歳で県議初当選、6期県議、浅野史郎知事時代に副議長になった。「暴れん坊県議」と言われた。黒須さんは市長選で3位で敗れたが、5月13日の市議会議員選挙に出馬、当選して亀山市長の疑惑追及を再開した。亀山市長は当選1月カ月後の5月25日、市長室を訪問した関西音楽家で構成する知人たちに「2020年度末に完成予定の複合文化施設を花道に引退したい」と語った。5月26日付の「石巻かほく」1面に大きく載った。市民からは4年間の任期をきちんとすることが先ではないかという批判の声が出た。トップリーダーとしての亀山市長の行動、市政運営は「おかしい」と思っている。私は自分の「目、耳、足」で取材して「おかしいことはおかしいと書く」ことをモットーにしてきた。私に対して黒須さんの選対本部長になったことについて批判もある。石巻は「政争の町」と以前から言われてきた。 黒須さんは亀山石巻専修大学教授を「チェンジ石巻」に担ぎ出しを図ったが、それが思い通りにいかなかった。31歳で宮城県議に当選したので政治行動にはいろいろあっただろう。私は黒須さんの選挙対策本部長就任したので私に対して批判がある。黒須さんの政治行動、石巻全体の歴史、歩みなどもっと検討すべきだったと思う。今は現役新聞記者ではないが、86歳のジャーナリストとして発言したいことが多々ある。2020年6月から「 相澤ブログ」を開設した。ジャーナリストの立場で「石巻 再生へ漕ぎ出そう」と発言している。

「政争の町」は複雑だ。歴代の市長を良く知っているが、石巻に赴任した当時の青木和夫市長は「市長は3期」というのが信念で昭和59年11月に退任、助役の平塚慎治郎さんにバトンタッチした。これが「石巻政争」に展開している。青木さんは石巻専修大学を誘致した。森口専修大学理事長・学長と信頼関係結んだことが成功と結びついた。石巻商業、小樽高等商業、昭和49年に競争率20倍以上の東京商科大学(現在一橋大学)に入学。卒業後、三井商船(東京)に入社。日本の貿易、海洋国家の外交官になろうと考えたこともあったという。父親がガス会社を経営したので三井商船から石巻に戻って経営を継いだ。石巻青年会議所理事長。当時千葉堅弥さんという革新系の市長がいた。3期12年間、港湾建設、道路、橋づくりなど戦後の石巻発展に多大な貢献、名誉市民になった。青木和夫さんは千葉さんに挑んだが落選、助役の伊勢照男さんと対決して当選した。
石巻市長選挙は2021年4月25日が投票日だ。市選管が発表している。1兆2,000億円の復旧復興国交付金を亀山市長は参謀役の浅野亨石巻商工会議所会頭と組んで「アサノマンション建設」など疑惑のなかで使った。「亀山市長3期12年間の足跡」について私の出身地秋田県から初めて内閣総理大臣になった湯沢市生まれの菅義偉首相はこうした事実をどう思うだろうか。浅野石巻商工会議所会頭は2019年(令和元年)11月1日、会頭を退任、元石巻市長の長男で石巻ガス社長の青木八洲さんが会頭に就任した。実態を追えばいろいろある。

 菅首相は宮城県選出の参議院議員和田政宗さんの後援者だ。2020年2月1日、仙台・勝山館で「和田政宗参院議員を励ます会」に菅義偉内閣官房長官が出席。菅官房長官が和田さんは将来を期待できる政治家であると励ました。私はオールドジャーナリストで田中角栄首相時代、宮城県知事選挙に同行取材した。「河北新報編集局長でした」と菅さんと名刺交換した。
菅義偉官房長官は2020年(令和2年)10月、第99代首相に就任した。湯沢高校卒。首相補佐官に共同通信論説副委員長の柿崎明二氏が発令された。共同通信仙台支社に勤務しており私の知人。しかも横手市出身。石巻市は2021年に東日本大震から満10年。同年4月25日は市長選挙が行われる。

 私は「石巻 再生へ漕ぎ出そう」をスローガンに2020年6月から相澤雄一郎ブログを開設した。河北新報の新聞記者を60年以上してきたので 自分のパソコンに入力した内容が数多くある。すでに入力した文章に追加入力していく。大川小惨事74人の児童犠牲について約20億円の国家賠償判決が下された。村井宮城県知事は最高裁判例を持ち出して「県には責任はない。学校設置者の石巻市が支払う。20億円は県が立て替えする」とした。       柏葉照幸校長の責任はどこへ行ったのか。大川小事故検証委員会員会が設置されたが「設置要綱に法律上、行政上の責任は問わない」とある。石巻市には43小学校がある。震災後、自宅に戻って亡くなった児童はいるが学校管理下で犠牲になった児童は1人もいない。大川小は震災後、40分も校庭に避難,74人の児童と10人の教師が亡くなった。

 「石巻チェンジ」に斎藤正美県議グループも入っていた
宮城県の政治経済情報誌「パロス(灯台)を発行した福田清彦さんがいる。私の友人だが東日本大大震災が発生した2011年(平成23)年3月11日、南三陸町役場の町議会で取材中、大津波に襲われ水死した。60歳ほどだった。2009年(平成21年)1月号(石巻版)で「政争の街」石巻市政を検証する!4月市長選 土井市長vs亀山教授の舞台裏を書いている。その中に「昨年12月20日、地域活性化集団チェンジ石巻」が結成され石巻専修大学教授亀山紘教授(66)を市長候補として擁立することを決定。12月24日にグランドホテルに招いて立候補要請の決議文を手渡した。黒須氏と斎藤正美氏は仇敵,犬猿の仲は石巻政界では知られている。土井市長追い落としの集団である。このように「政争の町石巻」の舞台裏は様々なことが起きているのだ。
亀山市長は4選市長選挙に対する態度を明らかにしてなかったが、2021年(令和3年)1月15日、4選出馬しないことを発表した。Ⅰ兆2千億円の国交付復興復旧資金をめぐる疑惑で黒須市議から背任告発された。現在、仙台地裁民事部で審議を続行中。
ジャーナリスト相澤雄一郎は「石巻 再生へ漕ぎ出そう」という相澤ブログを2020年6月設立、石巻の実態を書いてきた。黒須市議は亀山市長から2019年3月31日、出向先の総務省転勤させられた佐藤茂宗副市長を市長選に出馬させようと検討してきたが、佐藤氏は2021年になって出馬しないことになった。相澤雄一郎は3選の亀山市長のトップリーダーとしての行政手腕には同意できない。阿部和芳市議(60)が1月19日、出馬表明した。3度目の市長選挙である。

 2019年4月、元河北新報編集局長 常務取締役相澤雄一郎として「がんからの脱出」という自著をモッツコーポレーションから出版した。私は平成18年(2006年)12月、仙台厚生病院で肝細胞がんと診断され、石山秀一副院長に肝臓の3分の1を切除された。「胆管のそばに4センチほどの腫瘍があり胆管から外れていた。半分を切除しようと思ったが2分の1にした。酒を飲んでも大丈夫」とおっしゃった。そ後に院長になられが、胆嚢、肝臓、膵臓の手術では東北ではトップ。こうした名医に出会ったのは私が河北新報記者の大学担当で多くの医学関係の先生にお世話になったご縁だ。ご縁はさらにあった。細菌学研究について世界で有名な石田名香雄教授は東北大学総長になったが、石田研究室には製薬会社の研究生が短期留学していた。その中に東北大学農学部修士修了の松田忍さん(1938年生まれ)という武田製薬薬研究所勤務がいた。
松田忍さんは病原ウイルス、免疫学、インターフェロン誘発剤の研究などで1970年(昭和45年)、東北大学から医学博士号を授与された。武田製薬に戻ったが1990年(平成2)に退職、悪性腫瘍の研究に取り組んだ。
「がんからの脱出」の著書に松田博士のインタビュー記事がある。「悪性腫瘍(がん)は長年日本の3大死因(悪性新生物、心疾患、脳血管疾患)の1つで死因のトップです。武田薬品では悪性腫瘍という難病に取組まなかったが、安全で容易に予防でき、毒性がない薬品ができないかと何十年も考えてきた。それが藍プロポリスAです」。
私は肝細胞がんで平成18年(2006年)12月、仙台厚生病院で肝臓の3分の1を切除されてから「藍プロポリスA」を抗がん剤、放射線治療など受けずに1日、2,3服飲んで15年間生きてきたのだ。免疫が高まりコロナにかからずに86歳だが元気だ。
松田忍先生の研究の成果を厚生労働省に検討してほしい。私は「がんからの脱出」を出版したが、国立がん研究センターと取材などしてきた。
「藍プロポリスA」について説明する。南ブラジルのプロポリスは健康食品素材として優れた有用性があると以前から注目されてきた。これにブラジル産アガリクス茸、江戸時代に生薬として使用された阿波藍、蟻冬虫夏草茸などの成分を粉末化して混合。漢方薬は混合製剤だが、主成分は単一素材。藍プロポリスAは口腔粘膜の接触刺激よる口腔粘膜常在Tリンパ球を仲介して制癌作用を担う体内の全リンパ免疫機能の大きな亢進が図られるようになった。日本食品分析センターは1983年4月、マウスを用いた急性経口毒性否定試験を行って「安全報告書」を出した。
松田博士の藍プロポリスAについては「がん患者の選択」という相澤ブログがある。海外も含めてがんが治ったという投稿など寄せられている。私も「赤石康」という名前で投稿してきた。今、日本では毎年、38万人ががんで死亡、100万人のがん患者が発生している。オブジーボでノーベル医学賞を授与した本庶佑京都大特別教授は「21世紀は免疫療法でがんを治す」と言っているが、治療費は高額だ。「藍プロポリスA」は1箱40袋入って1万円。1日2、3袋を舐めように飲み込めばよい。1カ月3万円程度。私は肝臓を3分の1切除して15年も元気でジャーナリストとして行動している。「石巻 再生へ漕ぎ出そう」。私は大川小7人児童74の人災は見逃せない。石巻が生んだ天才彫刻家高橋英吉さんは32歳でガダルカナル島で戦死した。私はサントリー地域文化賞を申請して受賞した。高橋英吉さんの「青春の遺作写真集」発行に市図書館長橋本晶さんら先輩友人20人が費用を拠出、出版された。サントリー地域文化賞100万円の賞金も加えてもらった。手元の写真集1冊は私の宝物だ。高橋英吉さんの生涯を描いた「潮音・ある愛のかたみ」というドキュメンタリ-映画も制作された。166団体、851個人から1685万円の寄付金が寄せられた。
石巻市、ライオンズクラブ、市民らで2千万円近い募金が集まり潮音ブロンズ像3体を作った。1体は昭和56年10月、ガタルカナル島平和公園に建てられた。2体は石巻市体育館前、市内公園に建っている。高橋英吉さん夫人の澄江さん、石巻代表の市川信男    収入役、マスコミ人ら10数人が 除幕式に出席した。かつて石巻は「燃えた海の町」だったのだ。ガダルカナル島平和公園の潮音ブロンズ像は現在、建っていないという。石巻市に調べて欲しい。
市長という職責は極めて大きい。石巻市では菅原康平氏が1992年に当選。三期目の2002年に石巻ルネサンス事件で市民のリコール市長解職運動で退任した。私はすべて知っている。「石巻ルネサンス館のカラクリ」という本が発行されている。


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