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なぜインド太平洋地域で日本が「自由」と「開放性」を守るべきなのか ー「人はパンのみにて生くる者に非ず」

少し前に執筆しました「インド太平洋地域における「自由」と「開放性」の終わりとなるのか?」が、私の予想を上回る大きな反響を生みまして、多くの方にお読み頂きました。

11月16日午後の加藤勝信官房長官の定例会見での発言や、17日の菅義偉首相のスコット・モリソン豪首相との首脳会談の際の日豪首脳共同声明、そして18日の衆議院外交委員会での山尾志桜里国民民主党議員の質問への茂木敏充外相の応答と、政府の中枢にいる指導者の方々により、力強く「自由で開かれたインド太平洋」を日本が引き続き促進していく政治的意思が示され、少なくとも当面はこの路線が継続することが明確となりました。

私が前の投稿で書いたことが杞憂となり、引き続き日本政府が「自由で開かれたインド太平洋」構想を促進していくとすればそれはとても良いことだろうと思います。

少なくとも、私が抱いた危機感を政府の内外の多くの方に共有して頂き、そしてそのような疑念を払拭するような政府の明確な立場が示されたことで、警鐘を鳴らしたことに一定の意義があったのではないかと感じております。


そもそも、なぜ「自由」と「開放性」を日本が擁護することが重要なのか。そして、なぜ「自由で開かれたインド太平洋」が「平和で繁栄したインド太平洋」という言葉になることに問題があるのか。この点については、残念ながら依然として多くの方に、十分にご理解を頂いていないようです。

「平和と繁栄」とは、ナチス政権の下でも、スターリン政権の下でも、金正恩政権下でも、可能です。隷従や独裁が、平和や繁栄を生むことができるからです。むしろ、権威主義体制は、それに対する抵抗を抑圧して、安定性と平和を確保することを重要な目的とします。ですので、どのような「平和と繁栄」なのかを問うことが重要なのです。20世紀の歴史を直視する者には、それはあまりにも自明ではないでしょうか。

冷戦終結の頃には、「繁栄」を手にするためには自由民主主義が不可欠であるという認識が、浸透していました。それはたとえば、フランシス・フクヤマ氏の「歴史の終わり」論によって示されました。また、冷戦後のアメリカ外交は、自由や民主主義、そして市場経済を拡大することで、それにより平和が確立し、またより豊かになることを楽観的に唱えていました。

ところが、2009年のリーマン・ショックは、そのような楽観論を打ち砕きます。というのも、その後の世界経済の成長は、中国という非民主主義的な社会主義国家によって牽引されたからです。それ以後の十年、欧米の民主主義と、中国とで、どちらがより早い経済成長を実現したのか。そしてどちらがより高度な科学技術の発展やデジタル・トランスフォーメーションを進めたのか。AIや次世代通信網など、どちらがより先進的であり、優位な地位にあるのか。自由民主主義諸国がこの間に、ポピュリズムや、格差の拡大、政治の混乱を示す一方で、世界の多くの諸国が中国により大きな期待をするとしても不思議ではありません。つまりは、より早く、より確実に「繁栄」を手にするために、必ずしも自由民主主義体制は必要ではないと認識されるようになったのです。

また、「平和」とは、多くの場合に現状維持を意味します。南シナ海で、中国が係争状態にあった多くの島嶼を力による現状変更で実効支配をして、現在は軍事基地化を完了させつつあります。そうなれば、南シナ海で「現状維持」を求める勢力は中国となり、その延長線上の将来に防空識別圏(ADIZ)を設定して、中国に敵対的な諸国のそこへの航空機の進入に対して圧力をかけたり制限をすることが想定されます。だとすれば、われわれはそのような「奴隷の平和」に甘んじなければならなくなる将来も、想定しなければなりません。「中国による平和」です。

それは日本にとっても、深刻な問題です。現在、東シナ海では、中国が巨大な軍艦を転用し、そのような中国の海警の「公船」(実質的な軍艦)を尖閣諸島の周辺で大量に航行させています。たとえば来年の夏に、巨大な台風が尖閣諸島周辺海域に到来して、海上保安庁の比較的規模の小さな艦船が安全確保のために避難したときに、中国の海警の大型船がそのまま尖閣諸島周辺にとどまっていたら、台風が過ぎたあとには尖閣諸島が中国の海警によって実効支配されている状態になっている可能性があります。

そうなったときに、中国政府は東シナ海の「平和」を維持するために、偶発的事故を防ぐという名目で、日本の海上保安庁の船を「中国領」である「釣魚島」周辺に近づけないため、海警が保有する大量の「軍艦」を配備する可能性もあります。そうなったときに、中国は東シナ海の「平和」を壊すような、日本政府による離島奪還作戦を厳しく批判するかもしれません。「平和と繁栄のインド太平洋」をつくると語った日本は、自らの領土を奪還することはできなくなり、「中国による平和」を受け入れねばなりません。

これが、日本政府が求める目標でしょうか?

権威主義体制がもたらす繁栄と、中国が圧倒的な軍事力で維持しようとする平和。日本政府は、東南アジアとともに、そのような「平和で繁栄したインド太平洋」をつくっていくことを約束したのでしょうか?

これからアメリカは、国内の政策を優先するようになっていくでしょう。コロナ禍で苦しみ、コロナ対策と国内経済対策、そして失業対策に巨大なエネルギーを費やす必要があるバイデン民主党政権は、中国を批判する数多くの言葉を語ることになるでしょう。だとすればはたして、地球の裏側である東シナ海で上記のような緊張が発生した際に、日本が行う離島奪還作戦を全面的に支持してくれるのでしょうか。あるいは、「平和」を維持することを優先して、日本が尖閣諸島の領有を断念するように説得し、「隷従の平和」を受け入れることに圧力をかけることになるのでしょうか。

アメリカ政府の基本的な立場として、尖閣諸島の日本の主権は認めず、あくまでも日本の施政権を認めているにすぎません。トランプ政権は踏み込んで、日本の主権を認める発言を示しましたが、民主党政権で同様の態度をとるかは未定です。

バイデン次期大統領は、日本の施政権が及ぶ領域における日米安保条約5条の適用を約束しています。それはすなわち、上記のようなかたちで尖閣諸島における日本の実効支配が失われたときには、安保条約第5条に基づいて米軍が出動することは困難になるはずです。尖閣諸島の防衛について、施政権を失った場合には、それを奪還することも、またそのために米軍の支援を得ることも、けっして容易なことではないのです。

「平和と繁栄のインド太平洋」という言葉が、どのような問題を含んでいるかがこれでご理解頂けるのではないでしょうか。世界中で、「平和」と「繁栄」に反対している国は、私が知る限り、一国もありません。誰もが反対しないスローガンというものには、実質的には何の意味もありません。

他方で、「自由」と「開放性」となると異なります。なぜならば、上記で説明したように、中国政府は将来において、南シナ海、さらには東シナ海での「航行自由原則(freedom of navigation)」に制限をもたらす可能性があるからです。それは、東シナ海の尖閣諸島上空での防空識別圏を中国政府が2013年に設定する際に示唆したことです。国際法上の慣行とは異なり、中国政府は、自らに敵対的な諸国に対して、たとえそれば公海や公空であっても、侵入することを阻止することが考えられます。だから、インド太平洋地域においては、「自由」と「開放性」を強く求める諸国と、むしろそれを嫌う諸国に分かれるのです。

また、同時に、中国は2014年5月のアジア相互協力信頼醸成(CICA)首脳会議以降、「アジアによるアジアの安全保障」を求めて、「域外国」の関与を排除しようとする動きを見せています。アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリア、インドなどが、中国の考える「東アジア」の域外国となります。他方で、そもそも、そのような中国の動きに対抗するためにも、日本政府は2005年に始まる東アジアサミットでは、そこにアメリカや、オーストラリア、ニュージーランド、インドのような民主主義諸国を加えたのです。

すなわち、実質的に「ASEAN+3」を基礎として狭い「東アジア」をつくろうとする中国政府と、それに抵抗して広い「東アジア」を求める日本政府とで、これまで地域秩序形成をめぐる対抗が見られたのです。上記のような民主主義諸国を排除しようとする中国と、むしろ上記のような民主主義諸国を加えることで日本自らが孤立せぬように努力をしてきた日本と、「東アジア」をめぐる認識が大きく異なるのです。

前者の中国型の「東アジア」であれば、中国はASEANや韓国に圧力をかけて、自らが優越的な地位を確立して、いわば自らの「勢力圏」を確保できます。他方で、アメリカやインドが入れば、そのような中国の排他的な優位性は失われます。日本が「自由で開かれたインド太平洋」構想を進めてきたのには、そのような圧倒的な中国の優位性を相対化するためにも、アメリカ、オーストラリア、インドなどの民主主義諸国の参加が不可欠と考えたからでしょう。

その鍵となる用語が、「開放性(openness)」です。

そのような「自由」と「開放性」という、インド太平洋地域の将来を考える上での二つの鍵となる規範を失うことが、いったいどのようなことを意味するのか、おおよそ理解して頂けるのではないでしょうか。

さらに重要なのは、コロナ危機が生み出した現在の新しい趨勢です。そのような政治的意図や戦略とは無関係に、コロナ危機によって感染が比較的抑制されている東アジア諸国と先行してビジネス往来を再開しております。それと平行してRCEPの締結、さらには欧米諸国の感染の再拡大の深刻さを考慮に入れれば、今後2,3年の間に、日本の貿易構造に少なからぬ変化が生じることが想定されます。すなわち、日本経済の「アジア化」と、感染拡大が深刻な欧米諸国経済との実質的なデカップリングです。とりわけ、デジタル庁を設置して、さらにDXを進めようとする現在の菅政権の政策の優先順位を考えれば、そのためには台湾、中国、韓国、シンガポール、ベトナムなどの諸国との協力がよりいっそう重要となってくるのでしょう。

そのような経済的実態の帰結として、日本はアメリカやヨーロッパ、オーストラリアなどの民主主義諸国との経済的な一体性を弱めて、むしろ上記のような東アジア諸国との結び付きが強化される可能性があります。そうなれば、この地域のなかで、「自由」や「民主主義」が少なくなり、より「開放的」ではないインド太平洋のなかに自らが位置していることに気がつくことになるのかも知れません。

コロナ禍による世界のパワーバランスの変化や、今後のグローバル経済の構造の変容を考慮に入れるならば、日本がそのような現実によって翻弄され、漂流するだけではなく、明確な政治的意思と戦略性を持って、むしろ望ましいインド太平洋秩序を構築する上で、イニシアティブを示すことが重要になります。その際には、RCEPと、CPTPP、日EU間EPAをどのように組み合わせて、グローバルな貿易体制のスタンダードをつくっていくのかを、世界に示すことが重要です。

日本が目指すのは、自由や開放性、法の支配、人権といった規範に基づく、そして日米関係や日欧関係など、自由民主主義諸国との関係を引き続き重視していく「自由で開かれたインド太平洋」なのでしょうか。あるいは、中国がより優越した地位を占めて、「域外国」の軍事的関与を拒否して、より権威主義的な制度により安定性を志向するような「平和で繁栄したインド太平洋」なのでしょうか。

「平和で繁栄したインド太平洋」。そして「自由で開かれたインド太平洋」。この二つに、実質的には違いがない、という説明には私は十分に賛同できません。

なぜならば、新約聖書マタイ伝で書かれているように、「人はパンのみにて生くる者に非ず」、言葉によっても生きるからです。



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