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インド太平洋地域における「自由」と「開放性」の終わりとなるのか?

(2020年11月15日に書きましたこの論考について、その後さまざまな新しい動きや情報を入手して、大幅に改訂しました〔2020年11月17日2時40分〕。基本的な主張は変わっていませんが、細部で新しい情報をもとにして一部修正しました。)


これまでかなり懸念していたことが、実現してしまうかもしれません。おそらく日本外交にとっての一つの大きな転換になってしまう可能性があります。

首相官邸から、次のような報道がだされました。

「ASEANと日本で、平和で繁栄したインド太平洋を共に創り上げていくための協力を進めていくことで一致しました。拉致問題については、心強い支援を得ることもできました。
明日、RCEP協定に署名します。自由で公正な経済圏を広げるとの日本の立場をしっかりと発信していきます。」

ここで二つの点に注目したいと思います。第1は、「平和で繁栄したインド太平洋」という、従来の「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」という名称が、改められていることです。この「自由で開かれたインド太平洋」構想とは、日本政府が世界に向けて発信して、世界のほぼすべての主要な自由民主主義諸国が賛同するという、日本外交の歴史の中でも前例のない画期的な構想でした。日本が、国際秩序を形成する上で、これほどまでに主導的な役割を果たしたことはなかったかもしれません。他方で、このような日米主導の秩序構想に対して、自らが秩序形成を主導したい中国が不満を抱いていたことは想像に難くありません。ASEANに対する配慮から、日本政府も賛同するかたちで「自由」と「開かれた」という用語を排除して、「平和」で「繁栄した」という用語に入れ替えたとすれば、それは重要な潮流の転換を示唆すると思います。

第2は、RCEP協定への署名が確実となったことです。この報道はすでになされていましたが、このRCEPは、アメリカ、欧州諸国、インドが加わらず、中国と日本という、世界第2、第3の経済大国中心の地域経済秩序構想です。CPTPPに参加していない中国からすれば、「自由で開かれたインド太平洋」構想の柱でもあるCPTPPとは異なる、RCEPに日本も参加することが重要な意義を持ちます。私はRCEPへの日本参加は賛成ですが、そのことが意味する戦略的なインプリケーションを、CPTPPや、FOIP、日米豪印四ヵ国による「クアッド」とどのように整合させるか、明確な地域戦略が必要です。そうでなければ、日本経済にとっては不可欠なこのような重要な取り組みが、域外国に異なったメッセージとなって認識される可能性があります。

そのような重要な意味のある今回の日本政府の声明について、以下、私が抱いている懸念を説明をさせて頂きます。


2016年8月に安倍晋三首相のもとで、「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」戦略が発表されてから、中国政府はこのアプローチへの態度を曖昧にしてきました。当初は批判的だったのですが、2017年6月に日本政府がそれまでの対中政策を転換して、「一帯一路(BRI)」構想を条件付きで賛同してから、いわばFOIPとBRIの両立可能性を摸索してきたのだろうと思います。それとあわせて、おそらく対中配慮の意味もあるのでしょうが、「戦略」という名称を否定して「構想」に置き換えました。その後は、中国政府のFOIP批判はややトーンダウンした様子です。

他方で、それ以降、ここ最近では中国の対外政策でいくつかの新しい展開が見られました。①コロナ禍を契機として、世界最大の感染者が出るアメリカではなくて、中国が国際秩序の形成を主導していくことへの強い意向が見られる。だとすれば、日米合作の「FOIP」を世界中の諸国が賛同することは望ましいことではない。②イギリスやフランスが、南シナ海さらにはインド洋全域への軍事的関与を強め、さらにはHUAWEI問題での5G通信機器の導入を否定したことなどから、対中強硬路線を進む米欧との関係改善には消極的となり、むしろASEAN諸国や韓国などとの関係を強化して、それらの諸国を米国から切り離すこと(逆デカップリング)、③そしてすでに「大国」の座から凋落したとみる日本を経済的に誘引し、またRCEP締結、さらには外交関係改善というカードを用いて、アメリカから日本を経済的に離間させることです。

アメリカ大統領選挙のあとに、民主・共和の両陣営が敗北を認めず、政治的に混乱するであろうことは、中国政府内でも十分に想定されていたと思います。そして、アメリカ政府において、新政権の人事が確定して安定的に新しい政策を策定するまでは当分時間がかかり、さらにトランプ政権も国内的混乱と感染拡大から長期的行動を伴うような大胆な対外関与が困難となることからも、台湾や周辺国などに対してこれまでよりも圧力を一段階上げるような挑発的行動をとることは、多くの専門家や実務家が予期していました。

それがどのようなかたちでの、中国の周辺国への圧力となるのかやや不明瞭だったのですが、その「第一弾」としてASEANとの経済関係を強化して、他方でASEAN版のよりモデレートなFOIPである、AOIP(ASEAN Outlook on the Indo-Pacific)をトーンダウンさせて、共同声明に入れさせない圧力をかけることが明確となりました。「インド太平洋」という地理的概念はそれが地理的概念である限り、中国が反対する理由はありません。他方でそれが、FOIPのように「自由(free)」と「開放性(open)」という形容詞がつけば、必然的に南シナ海や東シナ海での中国の排他的行動を否定するニュアンスや、自由民主主義諸国の連携というニュアンスが生じる故に、中国が主導する秩序構想の対抗策となりかねないとおそらく考えているはずです。また、「開放性」という言葉が入れば、アメリカやイギリス、フランスなど、この地域への軍事的関与を強める、中国から見る「域外国」を排除することができなくなります。AOIPの場合は、FOIPよりも対中配慮が色濃く見られ、「自由」や「開放性」という言葉は後景に退いておりますが、それでも中国にとっては、ASEANが日米に接近するというような、好ましくない構想に見えたのでしょう。

北戴河会議から党大会(5中全会)に至るこの時期は、中国が新しい対外政策を策定して、それを政府組織内に浸透させる時期かと思います。その時期に当たる10月初頭に、東京がホストをしてクアッドの四ヵ国外相会合を開いたことで、一気に中国政府が、FOIPへの態度を硬化させた可能性があります。それにより、それまで、アメリカの進める軍事的なクアッドと、日本が主導する経済協力や法整備支援中心のFOIPを差異化して対応する中国の路線から、FOIP全般を否定する路線へと転換したのかも知れません。

その意味で、大統領選挙前の、トランプ政権の対中強硬路線に相当程度同調した日本政府のアプローチは、もう少し慎重に検討するべきものであったのかもしれません。少なくとも、トランプ政権が終わり、バイデン政権が前政権の産物である「FOIP」という名称を継続的に使用するかどうか、不明であるこの時期において、中国が集中的に圧力をかけて、FOIPに批判的になることは予想できたことでした。

他方で、少なくともこれまでバイデン次期大統領は、「FOIP」という言葉を明確に用いておりません。おそらく政権移行チームの中には、その用語がトランプ政権の強硬な対中政策を想起させることから、よりソフトな「安全で繁栄したインド太平洋」あるいは「平和で繁栄したインド太平洋」という言葉が好まれているようです。

結果として、中国政府はこれまでよりも、FOIPへの批判を強め、バイデン次期大統領は「自由で開かれた」という用語をあえて使用していない中で、日本政府がどのような姿勢を示すかが決定的に重要となっています。結果として、日本政府が率先して、「自由」と「開かれた」という用語を省いた「平和で繁栄したインド太平洋」という、いわば無色透明な(つまり誰も反対しない)言葉を用いれば、日本政府が対中配慮により、それまでよりも、インド太平洋の地域秩序形成へ向けたイニシアティブが後退したとみられても不思議ではありません。それが、RECP締結と同時に発表される戦略的なインプリケーションを、もう少し考慮する必要があったのではないでしょうか。とりわけ、ASEAN関連会合では、中国が圧倒的な存在感を示すなかで、アメリカ大統領は四年連続で不在、そして新政権のインド太平洋政策はまだ不透明な中で、参加するアジア諸国が今後の中国の影響力拡大を想起することは、いわば自然なことです。

政策とは、個別的に優れたものを立案・実施したとしても、それが全体としてどのような「構造」となるのかを的確に構想し、展開していかなければ、そもそもの意図とは異なる帰結となります。少なくとも、今の日本政府において、そのような「インド太平洋戦略」を構想する司令塔が、誰であり、どの部局であるのか、明確ではありません。

いずれにしても、私は今回の日本政府の意図せぬ動きが、インド太平洋地域においいて、「日米主導」の地域秩序構想が「中国主導」の地域秩序構成へとゆるやかに移行していくような、重要な転換点として記憶されるのではないかと懸念しています。それは、トランプ政権よりもソフトな対中政策を志向するバイデン次期大統領の一部の外交ブレーン、さらには中国との対立を嫌うASEAN諸国、そしてそのような動きに過剰な配慮をしてあえて「自由で開かれた」という用語よりも、「平和で繁栄した」という修飾語を用いることを好む外務省内の一部の声がつくりだす、新しい動きです。

いわばバイデン次期大統領の政権移行チームと菅政権と双方の中に、とりわけコロナ禍で傷ついた自国経済への考慮からも、中国との決定的な対立を志向することは好ましくはない、という思惑も垣間見えます。そのような志向は、ある程度私も共有していますが、もしもそのために中国に配慮して「自由」と「開放性」に固執しなくなるのであれば、たとえ同じ政策の継続と唱えていても、その精神は必ず後退して、埋没し、消失するはずです。そしてそのような後退が、この地域のアメリカの関与を縮小させて、中国の圧倒的な影響力をよりいっそう増していく結果になることが想定されます。少なくともRECPにより日中の経済関係を強化する方向へ動くタイミングにおいて、「自由」と「開放性」という規範をどの程度真剣に守る意思があるのか、そしてそれを重要視しているのかについて、これまでよりもトーンダウンしていないという明確な政治的な意思を示すことが重要であろうと思います。ですので、このタイミングでRECP締結についての声明を菅総理が示す際に、不注意にも「自由」と「開かれた」という言葉を省いて、「平和で繁栄したインド太平洋」という言葉を用いたことを、それがおそらくは意図せぬものであったとしても、その影響を懸念しています。

11月12日の菅首相とバイデン次期大統領との電話会談では、あまり報道されませんでしたが、バイデン氏は「自由で開かれたインド太平洋」という言葉を使いませんでした。ここで菅総理は「a free and open Indo-Pacific」と述べる一方、バイデン氏は「the peace and stability of the Indo-Pacific region」と述べています。次期政権がFOIPに関与するかは、いまだ不透明です。

もしもアメリカ政府が、「平和で繁栄したインド太平洋地域」という言葉を使うようになれば、それは、「構想」ではなくて、ただ単にこの地域に平和と繁栄をもたらすという希望を述べるのみで、その希望は中国にも共有されるものです。また、そのような用語を用いれば、むしろアメリカが行う南シナ海での「航行自由作戦(FONOP; Freedom of Navigation Operation)」に対して、中国政府がそれを「平和と安定性を損なう」ものであると批判して、「域外国」の介入を排除する口実となりかねません。バイデン氏の発言からは、そのような戦略的インプリケーションへの考慮や、慎重な用語の選択という姿勢は、あまり見られません。トランプ政権と同じ言葉を使いたくないという、政治的な理由が突出して感じられます。

まだまだ、不透明な部分が多いのですが、少なくともトランプ大統領支持者が、バイデン候補の勝利を認めないデモをして、国内が混乱すればするほど、アメリカ政府からの強硬な抵抗と圧力が不在となり、上記のような中国の影響力がこの地域で拡大するというシナリオが進行するスピードが早まります。その上で、トランプ大統領が四年連続で欠席をして、オブライエン大統領補佐官という低いレベルでの参加にとどまっている東アジアサミットなど、ASEAN関連会議の場でそのような圧力をかけることは、中国にとっての好機でした。

中国からの圧力を警戒して、過剰な配慮をせざるをえないASEAN。トランプ政権とは異なる用語を用いて、過剰なトランプ政権の対中強硬路線とは一線を画したいバイデン政権移行チームの外交ブレーンの一部。さらにはそのような動向を注視して、それにあえてあわせて「平和で繁栄した」という言葉を用いて、「自由」と「開放性」という用語の持つ特別な意味をあまり重視しない日本の外務省の一部の方々。それらの意向が深く混ざり合い、「自由で開かれたインド太平洋」戦略/構想が、後退し、死に絶える可能性があります。それは、明治以降ではじめて、主体的に秩序形成に取り組み、それが世界の多くの諸国に受け入れられた外交イニシアティブを、自らの手で土の中に埋めて、その価値を十分に理解することなく相対化してしまうという意図せざる結果に至る可能性があります。

それを喜ぶのは、中国です。いわば、自らが手を下すことなく、それぞれがそれぞれの思惑で、中国が敬遠する「自由」と「開放性」という重要な規範がこの地域から後退していくわけですから、何もせずに外交的勝利を得られることになるのです。

日本外交にとって試練の時期です。短期的で安易な結論ではなくて、ぜひとも長期的に、この地域において、日本にとってどのような秩序が望ましいかという、50年後から100年後までを視野に入れた戦略を構築してもらいたいと、強く願っています。

※なお、2020年11月16日午後の加藤勝信官房長官の定例会見で、関連した質問に対して、下記のような発言がなされました。

「加藤勝信官房長官は16日の記者会見で、菅義偉首相が14日の東南アジア諸国連合(ASEAN)関連首脳会議の後、記者団に「『平和で繁栄したインド太平洋』をつくり上げたい」と述べたことについて「『自由で開かれたインド太平洋』の実現に向けた取り組みを戦略的に推進する立場は何ら変わらない」と強調した。」

このように、加藤官房長官によりかなり強い語調で「自由で開かれたインド太平洋」について言及されましたので、とりあえずは現政権では大きな方針の転換はないだろうと安堵しました。外交は言葉が命ですので、つねにふさわしい言葉を賢明に選択してほしいと願っています。


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