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100周年を迎えて

新年あけましておめでとうございます。
2023年で(株)おのざきは100周年を迎えます。帝国データバンクの調査によると、2023年には全国で約2,000社が創業100周年を迎える見込みだそうです。業歴100年を超える老舗企業は日本全国に約4万社存在し、企業全体の約2.5%とごくわずか。そんな希少な立ち位置に当社が仲間入りできたこと、大変誇らしく思います。改めて、日々業務に尽力していただいている90名強の社員の皆さんに感謝の意を表します。本当にいつもありがとうございます。

97%の歴史はレジェンドから教わった

私は1996年生まれ。(株)おのざきは1923年生まれ。私が生まれる73年前に、おのざきは福島県いわき市平の鎌田町にて創業したのです。2020年におのざきに入社した私は、100年の歴史のうち、実に97年分の歴史を目の前で見てきたわけではないのです。そこで、おのざきで長く働いてくださるレジェンドの方々におのざきの歴史を話してもらう会をセッティングしたことがあります。普段はお年を召してボケボケの会長(当時90歳)も、昔話になるとついスイッチが入り、熱くなっておりました。

力強くおのざきの歴史を話す小野崎英雄会長(写真左)

おのざきの始まり

おのざき1号店は、いわき市平鎌田町にある、代々続く小野崎家の木造住宅の横に併設された小さな商店です。今や閑静な住宅街ですが、当時は賑やかな商店街だったと聞いています。私からすれば、おばあちゃん家が魚屋なわけです。小さい頃はよくおばあちゃん家で遊び、戸を一枚開ければ目の前が魚屋。売場にひょいと飛び出しては、写真の右に写るアイスクリームがたくさん詰まった冷凍ケースをガバッと開けて、ガリガリ君を盗みます。そして、窃盗が従業員に見つかると、「ツケで!」と言い放ち、逃げていました。(あれ、写真に写っている女の子もガリガリ君狙っている?)

おのざき鎌田本店(会長夫妻の自宅から発掘したアルバムより)
店のバックヤードの戸を開ければ、そこは魚香る自宅。

時は大正12年(1923年)。貧しい家庭ながら大家族を養うために、自宅の軒先で魚を売り始めた1人の女性がいました。彼女こそがおのざきの創業者であり、私のひいおばあちゃんです。女に魚屋ができるわけないと嘲笑されながらも、子供らのために必死に魚を売ったそうで、そのひたむきさが評判を呼び、少しずつ客が集まりました。やがて、彼女1人ではまかなえないほど繁盛し、10人の子のうちの末っ子が店を手伝うようになりました。彼こそがおのざき2代目であり、現・会長の小野崎英雄(私のおじいちゃん)です。

おのざき創始者・小野崎ウメ
晩年は目が見えなくなってしまったそう。

当時のお店の前の道路は、砂利道。風が吹けば砂が飛んで魚が汚れてしまうので、営業前に水を撒くのが日課だったそう。店に並べている魚が乾かないよう重たいタンクに入った海水をこまめに魚に撒くので、みんな腰を痛めていたそうな。電話の注文が入れば、オカモチ(よくラーメンの出前で使われるあの箱)に刺身を詰め込んで、山奥まで自転車を漕ぐわけです。仕出し業もやっていたので、結婚式などで大口の注文が入れば、夜遅くまで惣菜を作って、翌朝になると重たい木製の仕出箱をかついで結婚式場などに納品します。想像を絶する重労働だったと推察します。

当時の仕出箱がなんと倉庫に現存していたので、みんなで磨いてニスを塗って、
鎌田セントラルキッチンで製造した惣菜を運ぶのに使っています。

おのざきの成長期

1955年には、小野崎英雄(私のおじいちゃん)が正式に二代目として事業承継します。計算すると、当時24歳といったところでしょうか。(不思議にも、私が魚屋の門を叩いたのも、同じ24歳。)

小野崎英雄(私のおじいちゃん)は、実家の目の前で母親が切り盛りする鮮魚店を、高校を中退して手伝っています。高校中退により、勉強で1位にはなれなかったけども、魚屋で1位を目指そうと志していた、と私に話してくれたことがあります。その思いを胸に秘め、小野崎英雄(おじいちゃん)は、事業の拡大を進めました。

一番右が2代目・小野崎英雄(私のおじいちゃん)

おのざきの転換点となったのは、紛れもなく、1978年の「やっちゃば」(現在の鮮場やっちゃば)への出店です。1号店からわずか数百メートルの場所にあるため、大きな投資をしてまで出店するどうかをかなり悩んだそう。最終的に出店という判断の決定打となったのは、妻・晟子(伝説の女将であり、私のおばあちゃん)の言葉。「おれが本店を守るから、あんたは新しいお店に挑戦しなさい」

とある経営者が言っていたのをふと思い出しました。
「代々続くファミリー企業は、だいたい奥さんがしっかりしているパターンが多い。」伝説の女将・晟子(おばあちゃん)は、紛れもなく縁の下の力持ちだったと思います。

1996年の鮮場やっちゃば平店。
清潔感漂う店内。個人的には、観葉植物を魚屋に置いている点が最高。
おのざきラトブ店(いわき駅前商業施設LATOV内)の前身である、
平駅前店の看板。アメ横感が好き。
なぜかカニの看板。謎。1970年代のいわき駅前にあった看板です。

おのざきの第2転換期は2020年

2020年の夏、おのざきエブリア店・潮目食堂エブリア店を2つ同時に閉店しました。私が2020年1月に入社した直後にコロナが襲来。入社早々、いきなりの大きな決断を迫られたのです。当時のエブリア店は業績の足を引っ張る不採算事業。そこにコロナの影響が追い打ちをかければ、致命傷になると考え、傷口が浅いうちに早期撤退をすべきだと考えました。詳細は割愛しますが、入社してまもない当時24歳の私が、25年も続いた大きな店舗を閉鎖するよう動くのですから、株主含め各方面との調整に奔走したとはいえ、たくさんの矢を浴びました。。しかし、会社の永続的な存続を考えると、どうしても閉店させなければいけなかったと思います。

2020年9月6日、おのざきエブリア店・潮目食堂エブリア店が閉店

経営の本にだいたい載っている、企業ライフサイクル。当時のおのざきは紛れもなく、衰退期の渦中にありました。売上や利益は減少し、社内に漂うぼんやりとした士気の低下。ここで悪い流れを断ち切らないとみるみる衰退の一途を辿るのは明らかでした。誰かが流れを変えなければいけない。紆余曲折あり2020年1月に家業に入社した当時の私の心境は、「新規事業をバンバン立ち上げて、瞬く間に会社をデカくしてやる!」です。若気の至りとはいえ、熱く意気込んで入社した私に突きつけられた突然の会社縮小の選択。4代目である私の役目は、いつの間にか”拡大”から”肥大化”に変わり、内部統制力が低下してしまった会社の事業規模の縮小なのかもしれません。しかし、大きく飛ぶには屈伸が必要ですし、助走が長ければきっとその分遠くに飛べると信じています。第二創業期のフェーズに移行できるよう、山積する社内の課題に粘り強く向き合っていく所存です。

企業ライフサイクル

本部があるのは、店舗のおかげ。
新規事業ができるのは既存事業のおかげ。

家業である「おのざき」に入社して3年が経ちます。本当に反省の日々でした。入社当初は、社内に対して”もっとできるでしょ”とあれこれ求めすぎて一人で空回りしてしまったり、貴重な既存資源に目を向けずに新しいことばかりに時間を割いてしまったり。当然、私がもたらした急激な変化によって、会社を離れていくメンバーも少なくはありませんでした。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

そんな私が変わる大きな転機となったのは、ラトブ店の店長を担当し、店舗のメンバーと一緒に汗水垂らして働いた経験です。現場の大変さを仲間と分かち合い、絆のようなものが生まれました。特に記憶に濃く残っているのは、ラトブ店を減坪改装して売場面積を40%減らしながらも、最繁忙期である12月の売上が前年を上回り、営業利益も過去最高レベルで着地できたこと。12/31の営業終了後、あまりの達成感から不覚にも涙しました。間違いなく、ラトブ店の仲間のおかげです。

この経験から、現場に寄り添うことの尊さや、同じ目標を目指す過程で絆が生まれ、結果として組織のパフォーマンスが向上するということを実体験として学びました。

店舗と現場、どちらが大事という話ではなく、両者は共依存の関係にあると思いますが、それでも現場に敬意を持ち、寄り添う姿勢の大切さを身に染みるほど実感しました。

TUF「ちゃんろく」にて取り上げていただいたときの一コマ。

次の100年にむけて

課題は未だ山積しているものの、私は常に前向きです。(正確には、落ち込むときもあるけども、周りの経営者や仲間が助けてくれるから前向きでいられる。)

この3年間で、大小、数えきれないほど様々な挑戦をし、多くのメディアに取り上げていただきました。

中でも、

❶魚のアラを活用した出汁商品開発プロジェクト(https://camp-fire.jp/projects/view/534994

❷異業種人材とコラボしたEC事業の本格化(https://www.onozaki100years.com/

❸浜の伝統食をリブランディングした「金曜日の煮凝り」のリリース
https://youtu.be/Cp23UCR_2GQ

金曜日の煮凝り

などは、大きな影響がありました。創業100周年となる節目の2023年には、更なる大きな挑戦を仕掛ける予定で動いています。

いわき市平鎌田町で創業し、地元のお客様を大切にしながら地域密着で100年も商売を存続できたことは本当に素晴らしいし、ありがたいことだと思います。

初夏になると小名浜の港に水揚げされる初鰹や四倉の海に水揚げされるほっき貝、お盆になるといわきの街に轟く「じゃんがら」、夏の空に揺らめくカツオの火山(藁焼き)の煙、秋になればどこからか香る秋刀魚の香り、冬になれば、ぐつぐつとあんこう鍋。いわきを語るのに「魚」は切っても切り離せません。紛れもなく魚は「街の個性」なのです。

次の100年に向け、いわき市における存在感をもっと強めていきます。魚を通じて街をもっと多彩に、もっと面白く。これがおのざきの経営理念。街の個性を背負い、いつの日にか、いわきといえば「おのざき」となれるように。100周年を迎えたおのざきを引き続きよろしくお願いします!

おのざき1号店があったいわき市鎌田町の夏の風物詩「じゃんがら踊り」
夏の風物詩、カツオの火山(ひやま)
この煙を吸って私は育った。
いつの日にかの社員旅行の写真。
私の代でも、なんとしても社員を海外旅行に連れていきたい!
1号店の目の前のアパートを事務所として借りていたころ。
2代目(祖父)と5代目?(娘)の貴重な2ショット。
腕の太さが壮絶な苦労を物語っていますね。

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