ゆういちの一生 第18話 「ゆういち18歳~19歳。」

東京での生活がはじまる。

ゆういちは、大学生活を送るため、
香川から東京に引っ越し、
一人暮らしが始まりました。

学校は東京の八王子というところにあります。
八王子は「ここが東京?」と思うほど、山の中です。
ゆういちの住む家の前の道の名前は「野猿街道」でした。
とんねるずのユニット「野猿」の元になった道ですね。

お笑い研究会。

大学では、サークルや部活に入ります。

とんねるずに憧れ、ひそかにお笑いタレントになりたいと思っていたゆういちは、
お笑い研究会に行ってみました。

しかし、行ってみると

「今はお笑い研究会というより、実際はプロレス研究会になっている。」

と言われました。

プロレスのショーという形で体を張って笑いを取るそうです。
ちょっと違うなと思いお笑い研究会には入りませんでした。

アクションクラブ。

当時、三宅裕司さんが率いる「スーパーエキセントリックシアター」という劇団がありました。
その劇団のコンセプトが「ミュージカル・アクション・コメディ」だったこともあり、
アクションに興味を持っていました。

そこで、アクションクラブを訪問するため、ホールの入り口から入ろうとすると、
中から顔を押さえ、血を流した人が走り出してきました。

ん?

アクションって当てないんじゃなかったっけ?
怖くなってアクションクラブにも入りませんでした。

演劇部。

アクションクラブと一緒にステージを使っていた演劇部が
気にはなっていたのですが、なぜか入りませんでした。

テニスサークル。

結局、大学の構内でたくさんの人が勧誘をしていて、
その流れに流されるままにテニスサークルに入りました。

テニスに興味がまるでないのですが、
飲み会や合宿に参加しました。

クイズ愛好会。

また、勧誘のスペースの端っこの方で寂しそうにしている女子がいたので、
クイズ愛好会にも入りました。

クイズに全く興味がありませんが、
サークル活動や合宿に参加しました。

テニスにもクイズにも全く興味はなかったのですが、
がんばって大学生をやろうとしていたのだと思います。
どこかに所属したいと思っていたのでしょう。

クイズ愛好会の方は、オタクっぽい子もいて、おもしろい子もいて、
気が合う人が多かったと思います。

ウルトラクイズにも出ました。
ウルトラクイズとは、クイズをしながらいろんな国をめぐっていき、
勝ち残っていくと最終的にはニューヨークで決勝という番組です。
そのためだけにパスポートを取りました。
東京ドームで撮影でしたが、結局1問目で落ちました。

有名な劇団の公演。

東京には、地方では行くことができなかったライブ、公演があります。

有頂天のケラさんがやっている劇団健康、
松尾スズキさんの大人計画、
三宅裕司さんのスーパーエキセントリックシアター、
ウッチャンナンチャンのシャララなど、
いろんな劇団の公演を観に行きました。

米米クラブ。

また、この頃から急激に好きになったのが米米クラブです。

テレビの印象とライブが全然違って、
ライブは歌、ダンス、小芝居などが詰まったエンターテイメントショーで、
セットやグッズはカールスモーキー石井さんがデザインしたものという
総合アートの空間だったのです。

横浜アリーナのAUシャリシャリズムというライブから
ほぼ毎回ライブに足を運びました。

パチパチやGBといったバンドの雑誌に米米クラブが出ているのを
遡って買いあさりました。

米米クラブが出ているページは、ただのアーティストのページではなく作品でした。
カールスモーキー石井さんのデザインした衣装、メイクで統一された世界観。

トークもただのインタビューではなく、
コント的だったり、アーティスト的だったり、
毎回違って、掴むことができません。

どんどん米米クラブの世界にはまっていきます。

人と話す練習。

この頃のゆういちは「人と話すことが苦手」というのを強く感じていました。
自分が憧れたお笑いタレントには程遠いと思っていました。

そこで、話す練習を始めます。

サークルの人とも話すようにしていきます。

そして、見知らぬ人とも話すことができて仲良くなれるようになろうと思い、
自分が話しかけられる時が見つかったら話しかけるようにしました。

小さな劇団の公演だと、整理券をもらうために並んだりします。
その際に前後にいる人にできるだけ話しかけるようにしました。

20回話しかけようと思って1回できた、くらいの感じでしたが。
また、話しかけられたら、必ず話すようにしました。

丸井でお買い物。

一人暮らしを始める際は、ある程度の家具を親が買ってくれていたのですが、
足りないものは自分で買います。

最初は机がなく、ダンボール箱を机にしてご飯を食べたりしていました。

ベッドがなかったので、丸井に買いに行きました。
丸井は憧れのデパートですね。
コント赤信号の兄貴のコントの「丸井のカードで買い物をする」が頭に強く残っているので、東京に来たら丸井で買い物をする、は決めていたことです。

丸井のカードを作ってベッドを買いましたが、
確か8万円くらいだったかな?

高すぎですね。

宗教。

香川県の超田舎から東京という大都会に出てきたばかりなので、
いろんなことを知りません。

街で会った人について行ったりします。
知らないことを体験してみたいという好奇心なのでしょう。

「あなたの幸せを祈らせてください。」

と言ってくる人にも相手をして、ついていきました。

ある日、「滋賀県に総本山があり、そこでは聖水をもらえて、それで病気も治るし、願いも叶う。」と言われ、そこに行くツアーに参加しました。

そこには立派な建物があり、すごい数の人々がバスで集まってきています。
大きな建物の中のホールで集会があり「こんなご利益があった」という報告を前でやっていました。

僕はその宗教に興味があったというより、
宗教というものはこのようにやっているのだ、
ということにとても興味を持ちました。

集会の後、一人で建物の中をウロウロしました。
何か他にも収穫がないかと思って。
危ないですね。

結局、聖水はもらえないし、そこにいる人も魅力的な人もいなかったのでやめました。
魅力的な人がいたら入ってしまっていたかもしれませんね。
コンプレックスを持ってて、卑屈で、嘘くさい人たちという印象を受けていました。

尿道下裂。

さて、時間は遡り、香川から東京に来たばかりの頃です。

尿道下裂症の手術をして退院してすぐに東京に引っ越しました。

手術後の状態はというと、あまりよくありません。
おしっこをした後、尿が溜まっている感じがします。

後から母親から聞いた話では、医者が内視鏡で手術をしようとしたのですが、
思ったよりも中で空洞が大きかったため、手術ができず、
尿が漏れる出口の方だけ縫ったらしいのです。

そのせいか、ずっと尿が溜まった感じがして気持ち悪い状態が続き、
東京でバスに乗って学校に行く時も、椅子に座らなければ耐えられない状態でした。

しかし、ある日それは解消しました。
尿の他の出口ができたのです。
なので、元に戻りました。
元に戻った方が体調としてよかったのでそのままで行くことにしました。

残念ながら病気は治らず続いていくのでした。

続くよー。


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