第四十八話
「見張りはうちだけでなく、蔦谷様の方でも用意してくれると言っていたが、遊女総出となると気は抜けないな」
「蔦谷様は粋なお方ですからね、みみっちい事はしたくないんでしょう。今夜は水戸藩や尾張藩の大名達も訪れて花火の出来を競うみたいですし、玉楼の遊女に注目が集まるかどうかは怪しいところですが、遊女達にはもう話がまわっていて大はしゃぎですよ」
隅田川の水神祭には、武士も町人も貴賤問わず多くの人々が花火や屋形船、出店を楽しむため夕涼みにやってくる。
吉原の遊女達は基本的に外に出ることはできないが、ごく稀に、客は自らの財力を誇示するため、見世は、華やかに着飾った遊女達が男達の注目を集め、客をより多く呼び寄せるため、花見や歌舞伎見物などに出かけることもある。しかし今回、蔦谷が遊女総出と言いだしたのは、恐らく玉楼の現状を慮ってのことだろう。
人の口に戸は立てられない。胡蝶の心中に続き、お凛が千歳屋の水揚げから逃げだした話しは、面白おかしく尾鰭がついて吉原中に広がり、玉楼はさらに評判を落としていた。
決して粋な客ではなかったが、千歳屋という上客を失った痛手は大きい。千歳屋の機嫌を直すため、紫に手紙を送るよう頼んではいるが、まず戻ってこないだろう。いよいよ本格的に経営が芳しくなくなった事から、源一郎は客の少ない遊女を手放すという苦渋の決断をした。
玉楼を支えている紫の年齢は既に23であり、花魁としての盛りは多く見積もって1、2年。今育てている引っ込みの松と伊都が見世に出れるまであと2.3年はかかる。花魁にすべく育ててきたお凛を失った今、看板になる遊女がもう一人欲しいところだが、中々難しく、源一郎は常に頭を悩ませていた。
「まあ、遊女達の息抜きになるならそれにこしたことはない。蔦谷様の顔を立てて今回はご厚意に甘えよう。ところでお前を呼んだのは、別の件で意見を聞きたくてな」
最近の源一郎の相談相手はもっぱら佐知だ。機嫌を損ねたら面倒なので、一応お吉にも意見を伺うが、さすがのお吉も自分の間夫だった伊蔵の自死はこたえたのか、前ほどの勢いはなくなり、源一郎はひそかにホッとしている。
「梅の突き出し、日にちくらいは縁起のいい日にしてやったらどうだと、高野屋様が最初にお凛が突き出しするはずだった9月9日重陽の節句の日を提案してきたんだが、おまえはどう思う?」
同じ引込みだったとはいえ、玉楼の花形として売り出そうとしていたお凛と梅では全く扱いは違う。お凛は千歳屋との初夜が終わった後、さらに華やかな道中が行われる予定だったが、梅の突き出しは張見世のみの質素なものになるだろう。
「実際の日にちは玉楼で決めていいとも言ってくれていてな。俺としては、もっと早く見世に出て客をとって欲しいと考えているんだが…」
「いえ、御隠居様の言う通り、突き出しはまだ先にした方がいいと思います。多分ですけど、あの子折れ込んでますよ」
「…え?」
折れ込むとは、腹に赤子ができたことをあらわす言葉。梅に詰問した日、源一郎は梅に間夫がいることを確信したが、なぜかその可能性は全く頭になかったため、みるみる血の気が引いていく。
「…そういう様子が、見てとれるということか?」
「はい」
はっきりと頷き肯定する佐知に、源一郎は頭を抱えた。詰め紙、下湯、お灸など、あらゆる策を講じていても、吉原で働いていれば赤子ができる危険はいつも隣り合わせだ。源一郎が注意して梅を見るようになってから、間夫に会ってる様子は全くないが、佐知が言うなら決定的だと思わざるおえない。
「くそが!まだ見世に出てない女に手えだしやがって、また来たらとっ捕まえてやろうと思ってるんだが、今のところそれらしき人間は見当たらなくてな」
「おそらくもう、現れないんじゃないでしょうか。一度だけ寝て捨てられたんでしょう。
源さんに言われてから、私も色々調べたんですが、相手は玉楼の馴染みの客ではなく、菊乃の間夫だったんじゃないかと思ってます」
「菊乃の間夫?だがあれは松葉屋に女ができて来なくなったんじゃなかったか?」
菊乃の間夫は、時折楼主達の寄り合いでも話題にあがっていた斎藤海という男だ。
とにかくめっぽう男前なこの男は、気まぐれに張見世の遊女達を渡り歩き、馴染みになった女達は男の気をどうにか自分に向けさせようと金もとらず夢中になる。その上、諸大名の家来や大身旗本の子弟を抱えた名門道場の息子で家柄はべらぼうにいいのだからタチが悪い。
幕府に妙な目のつけられ方をしたくない楼主達は見て見ぬふりをしていたが、いっそのことマラがもげて来なくなりゃいいのにと皆鬱陶しく思っていたのだ。
「菊乃はなんと言ってる?」
「上手にすっとぼけてますよ。ただ、他の子達に聞いたら、胡蝶がいなくなった日、やはりあの男が来て部屋に連れ込んでいたそうです」
その言葉に、源一郎は確信する。
「おまえが言うなら多分その通りだろう。くそっ!元の女のところに来ることもあると知ってたのに油断していた」
「たちの悪い色男ってのは廓にとって迷惑以外の何ものでもないですからね。ただ、相手が斎藤海だという確たる証拠はないですし、梅も、言えば男が出入り禁止になると分かってますから絶対白状しませんよ。折檻して無理やり吐かす方法もあるけど、源さんそれは嫌でしょう?」
「どうせもうこない男の名をはかせても仕方ないだろ、梅の突き出しはなんとしても無事に終えたいからな、お凛の二の舞はごめんだ」
首を横に振りながら答える源一郎に、佐知が思い出したように言った。
「ああそれから、お凛は梅の相手に会ってると思います」
「なぜそう思う?」
「前に伊蔵とは関わるなと注意した時、お凛が言ったんですよ、厳つい男や、やけに顔が綺麗な男は好きじゃないって。伊蔵は傷がなきゃ男前でも綺麗とはいえませんからね。あの時はごまかされましたが、梅の間夫のことを言ってたんでしょう。
胡蝶がいなくなった日の朝、私はお凛一人に、梅を開かずの間に呼びに行かせたんです。梅を見つけても折檻しないでくれと頼んでくるあの子に絆されて…」
「え?」
思わず声を上げたのは、まさかこの佐知が、お凛に絆されるなんて信じられなかったからだ。
「焼きが回ったんですよ、そのせいで梅に手を出した男を取り逃がした。あの時まだ梅は新造出しも済ませてない禿でしたからね。捕まえられれば金を要求することもできたのに」
「いや、あの夜梅を寝せておけと言ったのは俺だ、おまえにはなんの責任もない」
心底悔しそうな佐知の表情と裏腹に、源一郎は佐知の意外な一面を好ましく思ったが、その遊女への甘さが命取りになることが証明されてしまったからには我が身を省みるしかない。
『おいら、一生懸命働いて、にいちゃんがあの人に怒られないように頑張るよ!』
初めて自ら買った禿だからか、源一郎はつい梅を子ども扱いしてしまう節がある。だがその油断こそが、今この状況を招いてしまった。
「とにかく早いところ公孝に診てもらおう。胡蝶がいなくなった日からだとしたら、もたもたしているうちに流せなくなる」
位の高い遊女ならまだしも、客をとったこともない半人前の新造が出産など絶対にありえない。梅がどんなに嫌だと泣き喚き抵抗しようと、遊女に赤子ができたら無理矢理にでも堕胎させるしかないのだ。
「まったく、遊郭の楼主なんてのは、鬼にでもならなきゃやってられないな」
「こちらも商売ですから当然のことです。薬や医者なんて金がかかると、階段から突き落としたり、真冬の冷たい水に長時間浸からせたり、それでも流せず責められ続け自ら命をたつ遊女もいます。医者にみせるだけ玉楼は親切ですよ」
慰めなのか、本気でそう思っているのか、佐知の表情からは何も読みとることができない。
(いっそのこと、人の情けなど捨てて、鬼にでもなった方がずっと楽かもしれない)
自らの役割に気が滅入りそうになりながら、源一郎は大きく息を零した。
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