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「望郷」第四話

 今日は朝から快晴。春になっても肌寒い日が多い4月の山形にしては気温も高く暑すぎるくらいだ。車でお寺へ向かう道すがら、ソメイヨシノが咲いているのを見かけ、助手席に座る真由ちゃんと、そのすぐ後ろの後部座席にいる母が、嬉しそうに指差し笑っている。

 そんな平和で長閑な車中、昨日の夜一睡もできなかった俺は、まるで二日酔いの後のように気分が悪かった。それでも、狭い軽自動車の運転席からはみ出てしまっている兄の後ろ姿を、相手が俺を見ていないのをいいことに好きなだけ眺める。

 妄想で何度も夢見ていた事が現実に起こったというのに、朝から兄を意識しすぎてまともに顔を見る事も、話す事も出来なくなる自分がもどかしい。嬉しくてたまらない気持ちと、本当に手放しで喜んでいいのかという迷いが頭の中を渦巻いて、どうしたらいいのかわからない。

(あんにゃは今、どんな気持ちなんだろう?) 

 信号待ちで車が止まりふと視線を上げると、バックミラー越しに兄と目が合い、俺は思わず俯き視線を伏せた。

 多分俺を踏み留めさせているのは怖れ。兄の想いを知ってしまった今、互いに一歩踏み出せば、血の繋がった自分達が本当に禁忌を犯すことになってしまう。

 常識も、欲望を抑える箍も、もうとっくの昔に捨てたとばかり思っていたのに、自分にまだこんな理性が残っていたなんて知らなかった。
 
 18歳で見知らぬ男に体を売ってお金を稼ぎ、生きていくと決めた世界で、自分の立場を上げるために力のある人間と寝る。そこへ飛び込むまではすごく不安で、怖くて…けど一度リミッターが外れてしまえば感覚は麻痺し、どこまでも堕ちていく。

 今まではどんなに穢れても、自分だけだったからよかった。だけど兄は俺とは違う。純朴で、真っ直ぐで、信じられないくらい優しい俺にとっての聖域。そんな男を、自分のいるところにまで堕として本当にいいのか?

『はいはい、慎司君は自己陶酔して今更いい子ちゃんになりたいのね』
 
 昨晩電話で泣きつく俺に言ったサリーさんの言葉。でもだって、悩むのなんて仕方ないじゃないか。ずっとずっと大好きで、恋い焦がれて、そんな人にあんな事されたら、きっと誰だっておかしくなる。

 熱っぽい瞳も、声も、柔らかい唇の感触も、その全てが、俺の妄想なんて遥かに凌駕していた。15年間消える事なく燻り続けた恋の熱が、全て己自身に凝縮されていくように欲情して、だけど、父や祖父母達の仏壇があるすぐ隣の部屋で自慰に耽ようとする自分に、今までとは次元の違う強烈な罪深さを覚えて…。

『でも結局トイレで抜いてきたんでしょ』
『…はい』
『ごめん私知らなかったんだけど、あんたって敬虔なクリスチャンかなんかだっけ?欲望やセックスを罪だと思ってる?』
『それは全然思ってないです。だけど俺と誠あんにゃは血の繋がった兄弟だし』
『そんなことわかっててずっと好きだったんでしょ?兄弟で、同じ男で、そんな相手が自分のことを好きだなんてどれだけ奇跡的なことか!
もうさ、うじうじ悩んでるの聞いてても鬱陶しいだけだから、きっとこれはご先祖様からのプレゼント♡っていい方に捉えてお兄ちゃんの胸に飛び込んじゃいなさいよ。
タブーや倫理観よりも、湧き上がる気持ちに正直になって、あとは何が起ころうと全部受け止める覚悟を決めるだけ。覚悟ができないならお兄さんのことは諦めなさい。勿体無いなあって思うけど、決めるのはあんただからね』
 

 サリーさんとの会話を思い出し、結局またぐるぐると一人考えている間に、俺達を乗せた車は、法事などの時に毎回訪れていたお寺に到着する。

「ついだついだ~!」
「真由ぢゃん走んねで、転んだら大変よ」
「ヤダもうおばちゃん、小せえ子でねんだがら、心配すすぎ!」
(この二人って仲いいよな)
 
 母と真由ちゃんを横目で眺めながら、俺は精神的な動揺と寝不足に車酔いまで加わり、息も絶え絶えで車から降りた。その途端、足がもつれつまづきそうになり、先に降車して待っていた兄が俺の身体を支えてくれる。

「大丈夫が?」

 普段の俺なら、このシチュエーションだけでご飯何杯分でもいけたはずだ。でも今は、昨日までの自分が、兄にどう接していたのか全く思い出せない。そんな俺の普段と違う様子を、ずっと気にしていたのだろう。

「ごめん、やっぱり、ずっと兄弟だど思ってだ奴さ本気であだなこど言われたら嫌だよな」

 辛そうに顔を歪め、小声で謝る兄の言葉を聞き、俺は首を振って否定する。

「違う!ごめんあんにゃ、それは絶対違うがら!おらも本気だす!今でもおらはあんにゃのごど…」
「ちょっどお!まこっちゃん達何駐車場でイチャイチャすてるの?」

 しかし、本気なのか冗談なのか、寺の本堂に向かって母と先に歩いていた真由ぢゃんに大声で声をかけられ、俺は慌てて兄から身体を離した。真由ちゃんの隣では、母がにこやかに微笑み俺達を見ている。

(だめだ…)

 勇気を出して踏みだそうと思っても、やはり兄と本気でどうにかなることに強い罪悪感を抱いてしまう。母の笑顔や、お墓に眠る父と祖父母達の存在が、俺の心にブレーキをかける。

「あんにゃ、行こうじぇ」
「…ああ」

 兄は何か物言いたげに俺を見たけど、俺はわざと気づかないふりをして、兄より先に歩き出した。


 幼い頃からお墓参りや法事で訪ねていたお寺の本堂は、実家と同じく何も変わってはいなかった。緑付畳が敷き詰められた内陣の中央には瓔珞などの美しい仏具と共に大日如来が祀られ、前机の上には、すでに香炉やお供え物が乗っている。

 祖父母の法事の時は、参列の前に待合室に集まり、お茶やお菓子を食べながら親戚達と準備が整うのを待っていたものだが、今回は身内だけということで、そのまま本堂へ入り僧侶が着席するのを待つ段取りになったらしい。俺達が参拝するスペースの外陣には、和風の座卓が数個並べられていた。

 本堂の厳かな雰囲気にあてられ皆が静かに待っていると、後ろから突然、慎司が?という声がした。え?と思い振り向いた先には、親父の弟である茂伯父さんと、いとこの悦っちゃんが立っている。家族だけと聞いていて心の準備が全くできていなかった俺に、母はこともなげに言った。

「ああ、やっぱり茂さんはおっちゃんの兄弟だす、焼香だけはさしぇでぐれって言うがら来でもらったのよ」

(そういうことは先に言ってよ)

 心の中で母に文句を言いながら、俺はつい身構えてしまう。無口で人付き合いの苦手だった父と違い、伯父は社交的で配送会社の社長でもある。

 決して悪い人ではないのだが、松原家は長男至上主義だったから、おらはほんの少すすか遺産もらえねがったとか、トラック一台から会社を作り成功したという話を小さい頃から何回も聞かされていて、少しばかり苦手だったのだ。

 『慎司もだがら、自分で成功すて兄貴見返しぇるぐらいにならんなダメだぞ』

 しかも同じ次男だからなのか、長男の兄より俺を贔屓しているようなところがあり、正直有り難迷惑なんだよなとも思っていた。

(ああ、昔は賢い賢い褒めてくれてたけど、絶対親父以上に酷いこと言ってきそう)

「慎司すばらくぶりだなあ、東京でアパートや店経営すてるんだって?大すたもんでねが」

 だけど、昔と変わらない伯父の言動に、俺は一人拍子抜けする。

(あれ?オネエタレントやってたことは伯父さんの中で消えてる?それとも触れないように気使ってる?)

「慎ちゃんテレビ頑張ってだもんね。バーやアパート経営するだめに、ゆうごりんとがみでえにオネエキャラ作ってだって、おばぢゃん言ってだげど」

 昔よりかなり体格が良くなった悦っちゃんの言葉を聞き、母の方を振り返ると、母はばつが悪そうに俺から目を逸らす。

(あー、そういうことね…)

 そこで俺は全てを理解した。母は俺を受け入れてくれているとばかり思っていたけど、本当は俺が男好きでおかまだということが恥ずかしかったのだろう。だから伯父達に、あれはキャラ作りだと言ってしまったのかもしれない。

「お店は休んでぎだのか?店を経営するってのは大変だろう」
「まあね、でもなんとがやってっず」
「東京でバー経営すてるなんてすごいわね!今度行ってみでえわ!」

 母の言葉をまんまと信じているような二人に、オネエなのはキャラじゃねえし!バーはバーでも女装バーだよ!と心の中で叫びながらも、俺は敢えて訂正しなかった。小さい頃、スカートをはきたいという俺の言葉に、心底不快な表情を浮かべた母の顔を思い出し泣きたくなってくる。

(落ち込むな俺!受け入れるフリをしてくれているだけでも感謝しなきゃ)

「慎司大丈夫が?さっぎから顔色悪いす、もす辛えようなら待合室で横さなって休んでてもいいんだぞ」

   と、不意に兄の手が俺の肩に乗り、俺を気遣う兄の声を聞いた途端、この場から消えたくなっていた心が救いあげられる。

 ここへ帰ってきてから、上がったり下がったり、全く定まらない感情に振り回されてしんどいけど、兄の存在に助けられるのは昔から変わらない。俺が笑顔で大丈夫だと応えると、兄は安心したように頷き、今度は伯父と悦っちゃんの方を見て挨拶した。

「お久すぶりだ伯おっちゃん、悦ぢゃんも久すぶり」
「…ああ」
「まごどぢゃん久すぶり」
(あれ?)

 悦っちゃんは特に変わりないが、兄に対する伯父の態度がやけによそよそしく、俺は違和感を覚える。確かに小さい頃、どちらかといえば俺を可愛がってくれていたけど、いくらなんでもあんなあからさまではなかった。

(気のせいか?)
「こんにぢは」

 だがその違和感は、真由ちゃんが茂伯父さんと悦ちゃんに挨拶した時、はっきりと形になってあらわれる。真由ちゃんの挨拶を、伯父は無視して目を逸らし、悦ちゃんですら無言で頷くだけだったのだ。

(おいおい、普通挨拶してくる子ども無視するかよ)

「ちょっと伯おっちゃん」  

 いくらなんでもその態度はないだろうと、茂伯父さんを問いただそうとしたら、すぐに寺の住職が現れ、俺達は微妙な空気のまま、参列者用の席にすわった。


 三回忌の参列者は、俺達家族に、茂伯父さんと悦ちゃんも加わった計6人。僧侶が着席し、施主である兄が挨拶をするため前に出る。

「本日はお忙すい中、遠方から遥々ご足労頂きまことにありがとうございます。これより、故人の三回忌法要を執り行わしぇて頂着ます」
 
 喪服姿の兄は、なんともいえず格好いい。真っ黒なスーツに隠しきれないガッシリとした肩と厚い胸板。ついうっとりと見つめていたら、ふと、15年前まで同じ場所に立ち挨拶をしていた、兄とは全く似ていない、小柄で猫背だった父の姿を思い出す。
 すると突然、もう父はこの世にいないのだという事実が、今更のように胸の中にストンと落ち、とてつもない喪失感に襲われた。
 
 思えば三年前、父が死んだという母の言葉を、俺はどこか現実味のない、昔話でも聞いてるような感覚で受け止めていた。
 お通夜も、お葬式も、49日も、一周忌も、どんなに母に誘われても、俺が行ったら死んだ親父が嫌がると拒否し続け、そこには、最後まで父に受け入れてもらえなかった失望や、結婚して家族といる兄を見たくないという言い訳や理由が沢山あった。
 だけど一番は、本当に父がこの世からいなくなってしまったのだという事実を、認めたくなかっただけなのかもしれない。

 気が付いたら俺は、とめどなく涙を流し、嗚咽を抑えることができないほど泣いていた。父が死んだ日から、一度も泣くことができなかったのに、3年目にして、ようやく心から泣くことができたのだ。

 その後法事は滞りなく終わり、思い切り泣いたからか、俺は、長年溜め込んでいた泥水が流されていくような、心地よさにも似た感覚を覚えていた。

「ほんじゃ、最後にみんなで墓参りして帰んべが」

 本堂から出ると母が皆に呼びかけ、用意していたお線香やお花、お墓をキレイにするための手桶や柄杓を持って、父とご先祖様達の眠るお墓へ向かう。
 母と真由ちゃんが先頭切って歩いて行き、その後を、俺と兄、茂伯父さんと悦っちゃんが続いていたら、茂伯父さんが後ろから兄の肩を掴み小声で尋ねてきた。

「あの女との離婚は成立すたのか?」

 伯父の言葉に、俺はさっきの兄と真由ちゃんに対する態度の理由を察する。子供に対してあの態度は許し難いが、真理さんの話は聞いていたから、伯父が真理さんを嫌ってしまう気持ちもわからないではない。  

「まだ成立はすてねんだげんど、真理離婚届にサインすで置いでいってだがら、今日明日には提出するごどにすた。昨日慎司ど話すて迷いは吹っ切れたす」 
 
 伯父ではなく俺の顔を見て話す兄に、胸の鼓動が早くなる。昨日俺と話して吹っ切れたというのは、つまりそういうことだろうか?
 兄はまるで、俺の心を読み取ったかのように頷き、じっと俺を見つめてきた。

(もういい、やっぱりあんにゃを信じよう。あんにゃが本気で真理さんと離婚するって決めてくれたのなら、俺も覚悟を決める)
 
 そんな俺達の密かな心のやり取りに気づくことなく、伯父はため息をつき言葉を続ける。

「あの女の子供とも養子縁組も解消するんだな?」
「いえ、真由はこのままおらの子どすておがれます《育てます》」
 
 兄の返答に、伯父の纏う空気が変わった。

「何言ってるんだ!もしおめが万が一亡ぐなったら、あの女の子供が松原家の土地や財産相続するごどになる!そすたらあの図々しい女がまた松原家さ関わってくるぞ!離婚すたら連れ子の養子縁組も解消するのは常識だ!慎司!おめも黙ってねで何とか言え!」
「いや、おらは松原家出て行った人間だがら…」

 家出した時から、親の土地や遺産を相続することなど全く考えていなかった俺は、まるで遺産相続ドラマのような伯父の迫力に圧倒される。

「ほだな先のごどなんて考えられね!真理ど離婚すても真由はおらの子供だど思ってるす、養子縁組解消は考えでましぇん」
「ふざけるな!おめがほだなこど言える立場だど思ってるのが!そもそもおめは、松原家ど何の縁もゆがりもね他人だったんだぞ!」
(え?)

 いきなり飛び出した伯父の発言に、俺は一瞬自分の耳を疑う。

「全ぐ、兄貴もあだなインチキ霊能者なんか信ずっからこだなこどになるんだ!誠はあだな売春婦につかまるす、唯一松原家の血受け継いでる慎司は家出すて女男になるす!呪われてるどすか思えん!」

(え?どういうこと?あんにゃが他人?インチキ霊能者?ていうか俺がゲイなの呪いなの?ちょっとそれは言葉がすぎるでしょ!)
 
 何からどう突っ込めばいいのか分からず、俺は狼狽え立ち尽くすことしかできなくなる。

「いい加減にすろ!これ以上おらの家族ば侮辱するな!大体おらが万が一死んで真由が相続することになってもおめには関係ね!零細企業の社長が偉そうに!いづまでも長男の親父優遇さでだごど僻みやがって!みみっちいんだよ!」
 
 だが、兄がその言葉を発した瞬間、俺はやばいと思った。おそらく人間には、そこを突かれたら理性を抑えられなくなる脆弱な心の鬼門がある。どんなに腹が立っても、他人がそこに触れては絶対にいけない場所。

「なんだど!」

 案の定伯父は怒りに震え兄に殴りかかる。俺は伯父の前に咄嗟に立ちはだかり、勢いのまま握り拳で横っ面を殴られた。

「慎司!」

 痛みに頬を抑え、思わず地面に膝をつく俺に兄が駆け寄り、伯父に向かって怒声をあげる。

「ふざけんな!慎司さ怪我さしぇやがって!」

 小さい頃も、おかまだ女男だといじめられていた俺を、兄はいつも怒りも露わに相手に立ち向かい助けてくれた。でもダメだ。もう俺たちは子供じゃない。俺は伯父に向かっていこうとする兄を必死に止める。

おっちゃん《お父さん》!」

 と、突然悦っちゃんが大声で叫び、兄を抑えながら振り返ると、伯父が頭を押さえ、顔面蒼白になってしゃがみこんでいる。どうしたんだ?と思った次の瞬間、そのまま地面の上に倒れこんだ。

「茂さん!」

 騒ぎに気付いた母と真由ちゃんも慌ててこちらに走ってくる。

「救急車呼ばねど!」
 
 真由ちゃんの言葉で我に返り、俺は携帯をポケットから取り出した。震える手で119番を押し、すぐに繋がった通信指令員に、伯父の様子を説明する。こんな状況だというのに、俺はどこか冷静に、今日の夕方の新幹線はキャンセルした方がいいかもしれないと頭の隅で考えていた。

 伯父にも、母にも、兄にも、すべて説明してもらわなくては気がすまない。自分のいない空白の15年の間に何があったのか、この数時間で、聞きたいことが山のように積もっていた。







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