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第十七話

「足抜けだってよ」
「もうとっくに心中しちまってんじゃねーか?」

 いつもは閑散としている朝の吉原にしては、やけに騒がしい光景に戸惑いながら、海は飛び交う言葉に耳を傾ける。

(さっき梅たちが話していた遊女のことだろうか?)

 自分とは関係のない、会ったこともない女の話だが、先ほど切羽詰まった声で嘆く梅達の会話を聞いていたせいか他人事に思えない。海は、見ず知らずのその女が逃げ切れることを願いながら大門を後にした。

 春を告げる麗らかな陽気の中、海の足取りは重い。後から現れた女に、出ていけと怒りも露わに玉楼を追い出されたことが、余計に憂鬱を深くしていた。日本堤の途中で海はふと立ち止まり、吉原を振り返る。

(梅はどうしてるだろう?)

 梅に会いたい。もし梅が、海の名を呼び笑いかけてくれたら、その身体を抱きしめることができたら、この鬱々とした感情はきっとすぐに薄れていくだろう。昨日初めて会った女であるはずなのに、海の心の中に、梅の心底嬉しそうな笑顔が広がり、心が洗われるような愛しさがこみあげる。
 海は、今夜もう一度梅に会いにいこうと心に決め、再び歩き出した。


「お帰りなさいませ」

 冷めた視線をよこしながらも、形だけは頭を下げる門番の横を通り抜け、海は斎藤家の屋敷へと入っていく。向かった先は、今や客室として使われることのなくなった離れ。
 かつて自分が殺されかけた場所が、海の唯一の居場所になっているのは皮肉な話だが、父と顔を合わせたくない海は、過去の恐怖よりも、離れを自分の部屋にすることを選んだ。

 無論、忌まわしい記憶は消えるはずもなく、海が毎晩のように遊郭へ行くのは、ここに一晩中いることなど到底無理だという理由もあった。しかし、そんな矛盾にまみれた生活もついに終わる。海は今日、斎藤家を出ていく決意を固めていた。

 すべての根源である父を憎み嫌いながらも、この家に留まり続け、家の名を汚すことばかりしていたのは、ある意味海にとって、父への子供染みた復讐のようなものだった。結局自分は、激しい憎悪と裏腹に、父に執着していたのだろう。

 海は離れへ入ると、いつか出ていく時にと用意していた布袋を掴む。中に入っているのは、母の形見の簪だけ。斎藤家という後盾がなくなった後、自分が一体どうなるのかはわからないが、ここに残るという選択肢はない。後はもう、運を天に任せるだけ。

「じゃあな…」

 武士の証である刀を腰にさし、海は、今までの記憶を振り払うように離れから出て行く。だが、離れの外には、まるで海を待ち構えていたかのように、父慎一郎が立っていた。

「どこへ行くんだ?」

 海は思わず舌打ちをして父を睨みつける。

「あんたこそ、こんなところで何してるんですか?今日は大事な試合の日でしたよね?」

 海がそう言うと、慎一郎は心底意外だという表情を浮かべる。

「なんだ、覚えていたのか。てっきり女遊びがすぎて忘れているものとばかり思っていたが」

 その言葉を、海は否定するように鼻で笑う。忘れてなどいない。むしろそれが、父への復讐などという下らないものからようやく解放される理由なのだから。

「早く道場へ行ったらどうですか?」
「行くさもちろん、ただし、おまえも一緒にだ」
「は?なんで俺も行く必要があるんですか?この家を継ぐやつを決める試合に、俺が出る必要なんてない」

 きっと慎之介が勝ち残り、道場を継ぐことになるだろう。あの事件があってから、海と慎之介の関係がぎくしゃくしたことは確かだが、海は、慎之介が気持ちの優しい男であることを知っている。

 初めて会った時、皆が遊女の子である海を蔑む中、慎之介だけはなんの迷いもなく、笑顔で兄上と呼んでくれた。その屈託のなさに、当時の海がどれだけ救われたかわからない。海が憎んでいるのはあくまでも父であり、慎之介には、これ以上迷惑をかけたくないと思っている。

「俺はこの家に金輪際関わる気はないんで安心してください。あんたも、俺が出ていったほうが嬉しいでしょう?」

 それだけ言うと、海は慎一郎に背中を向けて歩き始める。もう二度と、この男と顔を合わせることはないだろう。

「いい年して、いつまでも悲劇の主人公面か?」
「は?」

 しかし、数歩歩いたところで、吐き捨てるように呟かれた慎一郎の言葉に、海の足が止まる。込み上げてくる怒りをどうしても抑えることができず、振り向きざま睨む海を煽るように、慎一郎は言った。

「あの時おまえが慎之介に勝ったのはただの偶然だ。おまえはただ負けるのが怖くて試合も出ずに逃げだすだけだろ?」
「そう思いたきゃ勝手に思ってろ!今まで俺も俺の母親も、散々てめーに振り回されて生きてきたんだ!これからの人生は俺が自分で決める!」
「そうやって、全て人のせいにしてきた奴に、今更自分で自分の人生を決めることなどできるわけがない。自分の器も実力も見極められないなんて、つくづく情けない男だなおまえは。今のおまえを見たら、ひろもさぞかしがっかりするだろう」

 父の口から母の名が出た瞬間、かろうじて保っていた理性が切れ、海は慎一郎に掴みかかった。

「てめえ!」
「殴りたければ殴れ、そしてとっととこの家から逃げ出せばいい!」

 強い口調と裏腹に、なんの抵抗もせず自分を見る慎一郎の目から伝わってきたのは、怒りでも揶揄でもなく、深い悲しみ。その眼差しが、昨日梅といる時久しぶりに夢で見た母親の悲しげな表情と重なり、海は父の胸ぐらを掴んでいた掌の力を緩める。

「俺は、逃げるわけじゃない」
「…」
「あんたに、一生逃げ出した奴なんて思われるのはムカつくからな。最後に、勝負だけはしてやるよ」

 海の言葉に、慎一郎は先ほどの表情は錯覚だったのかと思うほど不敵に笑う。

「男に二言はないな」

 まんまとはめられたと後悔したがもう遅い。ついてこいと歩きだす慎一郎の背中を眺めながら、海は諦めたように後に続いた。
 思えば、父と共に屋敷の庭を歩くなど、一体何年ぶりだろうか?海の頭の中に、この家に来たばかりの頃の記憶が蘇る。

 幼い頃は、海も人並みに父親に認められたかったのだろう。初めて慎一郎に稽古をつけてもらった日から、剣術は海に希望を与え、海はとりつかれたように練習に励むようになった。
 あの頃の海は、慎之介に追いつき強くなることが、自分や母を馬鹿する奴らを見返せる唯一の手段なのだと、心から信じていたのだ。

 しかし、どんなに強くなったところで、門弟達の海への蔑みが消えることはなかった。それどころか、慎之介を凌ぐ力を身に付けたことで、海は義理の母親に殺されかける。実の母を失い、義理の母に殺意を持たれるほど憎まれる自分の人生とは一体なんなのか?

 生きることに絶望した海は、酒と女に溺れ荒れた生活に足を踏み入れたが、父や慎之介、門弟達が去った時間を見計らい、道場での一人稽古だけはずっと続けていた。別にそれは、自己鍛錬のためなどという立派な理由ではない。認めたくはないが、女の温もりが海の心を満たすように、無心に刀を振っている時もまた、海の孤独と苦痛を沈めてくれるのだ。

(結局、この親父につけられた稽古の癖が身体に染みついちまったんだよな…)

 試合に出る気などなかったはずなのに、道場に近づくにつれ、海は、久しぶりに本当に強い人間と対峙できる嬉しさが、体の内側から湧いてくるような感覚を覚える。遊郭に通うようになってからの自分の練習など自己流でしかない。毎日のように父や慎之介、腕のある門弟達と稽古をしていた時よりも、腕はずっと鈍っているだろう。それでも、この本能的な高揚感は、抑えようがなかった。


「おい、海が来たぞ」
「なんだと?なんであいつを連れてくるんだ、慎一郎様はいったい何を考えているんだ」
「全く、図々しいにもほどがある!」

 道場に入った途端、聞こえよがしに自分に浴びせられる非難の言葉。海は表情を崩さず平然とその場に立ち、他人からの悪意を遮断する。ここで生きてきた海が、自分を守るために身に付けた、厚顔無恥という仮面。中傷や批判など、とっくの昔になれてしまった。誰になんと言われようとどうでもいい、いちいち傷ついていたら、とても身がもたない。 

 自分に集まる注目を無視し、この後自分と試合をするであろう高弟と慎之介の姿を探していた海は、一つの場所に目を奪われる。そこには、男だけの道場におよそ似つかわしくない、自分と同い年くらいの美しい女が、父の親友、間部忠義とともに座っていた。

(掃き溜めに鶴だな)

 女を見ている海に気づいたのか、慎一郎が海の疑問を察したように告げる。

「忠義の娘だ。妙な気は起こさず試合に集中しろ」「そんなんじゃねーよ」

 海を牽制するように放たれた言葉に腹が立ったが、むさ苦しい男だらけの道場に美しい女がいれば、視線は自然とそちらへ向いてしまうのは仕方のないこと。突然現れた海が珍しいのか、女は食い入るように海をまっすぐ見つめたまま、その大きな瞳を海から全くそらそうとしない。

 その女の佇まいに、なぜか自分と似た匂いを感じ、海は違和感を覚えた。間部忠義という男がどんな立場の男であるのかは、政にうとい海でも知っている。その娘であり、蝶よ花よと育てられてきた女が、自分と似ているはずなどないのに、なぜこんな感覚を覚えるのか?

「これから、文武館の次期当主を決める試合を始める!」

 と、女にとられていた気が、父親の声で引きもどされる。次期当主など、ここを出ていくと決めている海には関係ない。そんなことよりも、海は、久々に慎之介や高弟達と全力で戦える喜びに武者震いする。

(やるからには、絶対誰にも負けたくない)

 その結果が、自分の運命に何を齎すのかなど知らぬまま、海は、奮い立つ闘志を、体の内に激しく燃やしていた。


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