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第五話 

 遊廓に売られた子どもが、無垢な少女でいられる期間は儚く短い。16の新造出しから17の若さで花魁となり、それから幾度月日が流れても人気は衰えることなく、玉楼を一身に背負ってきた佳乃の身受けが正式に決まった。相手は、代々続いてきた奥医師の息子で、昔はただの塾生だったが、今じゃ立派な医者となったあの柿崎だ。

「それにしても、まさかあの男がそんなに立派な家柄の息子だったとはね。塾生だった頃なんて本当にひどい身なりだったから、てっきりただの田舎者だとばかり思ってたのに」
「しかしいくら花魁だって言ったって、廓育ちの遊女を嫁にすることを柿崎家もよく許したもんだ。まったく大した子だよあの子は」
「でも、佳乃が身請けされちまったら、この見世はいったい誰がしょってたつんだい?」
「さあねえ、胡蝶か紫じゃないか?でもあの子達に佳乃のかわりがつとまるとはとても思えないがね」
 
 玉楼では、次の番付一の花魁は誰になるのか常に話題に上り、佳乃の身請けがいよいよ明日に迫った今日、源一郎とお吉の話し合いはほぼその内容一色だった。

「俺は胡蝶がいいと思う。ちょいと気は強すぎるが上客も多いし意地と張りがある。紫は美しいし人気もあるが、この見世を背負って立つには少々気弱なところがあって心もとない」
「確かに紫は頼りないところもあるが、その従順で儚げなところがいいという男も多いし、蔦屋様と千歳屋様というなじみの上客が二人も付いてる。常連客の数は胡蝶のほうが多いかもしれないが、おとすお金は同じくらいだ」
「だが、胡蝶のことはあの高野屋のご隠居様がえらく気に入ってる。あの人には玉楼が傾きかけた時随分世話になったじゃねえか」
「そうはいってもねえ」

 二人の意見は平行線で中々結論がでなかったが、ここ最近老齢で寝込むことも多くなり、滅多に見世のことに口出ししなくなっていた虎吉が、突然寝床から起き上がり、口を挟んできた。

「胡蝶を番付け一の花魁にするわけにはいかねえな」
「なんでだい?親父」
「源一郎、おまえ忘れちまったのか?あいつは昔、ここで働いていた若い衆と足抜けしただろうが?」
「ああ…」

 忘れたわけではなかったが、源一郎はその時期暫く家におらず、詳細を聞いたのは騒動がおさまった後だっため、虎吉達ほど胡蝶の足抜けは印象に残っていない。当時、玉楼の売れっ子だった胡蝶の駆け落ちは、吉原中の話題を独占した。胡蝶と男はあっとゆう間に捕まり、男は忘八達に処刑され、胡蝶は玉楼に連れ戻され散々折檻されたが、その後も反抗的な態度が続いたため、河岸の切見世に売り飛ばされたのだ。

 考えてみれば、それだけの目にあった遊女が、再び玉楼の売れっ子に返り咲くのは奇跡に近い。それもひとえに、胡蝶の一番の上客である高野屋のご隠居が変わり者で、胡蝶を見放さなかったことが大きいだろう。

「前科のある遊女を花魁にするわけにはいかねえだろう」
「前科ってったって、もう随分昔のことじゃねえか」
「いや、あいつが逃げたせいで、こっちはとんでもない損害を被ったんだ。おめえは何もわかっちゃいないようだが、ああゆう危なっかしいのを花魁にするわけにはいかない。俺もお吉の意見に賛成だ。次の番付け一の花魁は紫でいく」
「あんたの言う通りだ!さすが玉楼の親方だね、いざって時頼りになる」
「…」
 
 年老いたとはいえ、長年楼主として、数々の花魁を見出してきた虎吉の言葉には説得力があり、源一郎も虎吉の言葉を受け入れた。


「帯がない…」

 佳乃の身請けが決まってから、玉楼はてんやわんやと忙しく、なぜだかしょっちゅう何かしら問題が起きる。

「全く、なんだってあんたはそうやってなんでもすぐなくすんだい!ここにあるものは全部佳乃さんの持ち物だから大事にしろといつも言ってるだろう」
「ごめんなさい…」

 中でも梅絡みの問題は特に多く、ここ最近、梅の持ち物は不自然なほどよくなくなっていた。ついこの間も、梅の簪が厠に落ちていたのが見つかり、お凛以外の禿や新造たちが、みんなで梅を責め立てたばかりだった。

「梅ちゃん、私も一緒に探すよ」

 ヒソヒソと聞こえよがしに梅の陰口を叩く禿や新造を尻目に、お凛が梅に歩み寄り声をかける。しかし梅は、一人で探すからいい!とお凛に冷たく言い放ち、ろくにお凛の顔を見ようともせず立ち去ってしまった。そんな梅の様子を、佳乃は黙って見ていたが、やがて、お前たちはここにいろと言い残し座敷を後にする。

「梅、あんた一体、どこへ帯を探しに行こうってんだい?」

 とぼとぼと廊下を歩く梅の後ろから佳乃が声をかけると、梅はビクリと肩を振るわせ、ゆっくりと振り返る。

「佳乃姉さん…大切な持ち物を申し訳ありません」

 佳乃の姿を見て、梅はすぐに頭を下げ謝ったが、自らの顔を見られまいとするように中々顔をあげようとしない。

「謝るなら、私の顔をちゃんと見て謝りな」

 佳乃がそう言うと、梅は辛そうに顔を歪めながらもゆっくりと顔を上げる。梅の目には涙が溜まり、今にもこぼれ落ちそうになるのを必死に堪えていた。

「おまえ、自分が嫌がらせされてることに気づいているかい?」

 佳乃の問いかけに梅は首をふったが、おそらく嘘だろう。佳乃は梅が、同じ年代の禿や新造達から疎まれ憎まれていることに気づいていた。原因はわかっている。みなと同じ禿だったはずの梅が、お凛とともに引込禿になったことが反感をかったのだ。

 引込禿は、普通の禿とは待遇が違い、琴に三味線、書道、俳諧、更に小唄や舞なども稽古し、将来売れっ子を約束された禿しかなれないものだ。
 最初から引っ込み禿としてお吉に期待されているお凛に嫌がらせをするものはいなかったが、梅がなった時、それまで仲間であったはずの少女達は、突然梅に牙をむいた。

 人は、はなから敵わないと思っていた者よりも、同類だと思っていた者が飛び抜けた待遇を得た時、より残酷にその人間を攻撃する。梅はこれ見よがしに陰口を叩かれ、虐められるようになり、その状況に気付いた佳乃は、心苦しく思いながらも黙って梅の様子を見守っていた。
 この状況を乗り越えられるかどうか、佳乃はちゃんと見届けなくてはならない。なぜなら、梅を引っこみ禿にするよう源一郎やお吉に勧めたのは、他でもない、佳乃だったからだ。

 きっかけは2年前、お凛の通う稽古所の師匠から、これ以上いい加減な態度が続くようなら来ないでもらいたいと言われたお吉が、佳乃に相談をもちかけてきた時まで遡る。お凛は、あらゆることをそつなくこなす一方で、遊女になるしかない現実への反抗からか、どの稽古事にも全く真剣に向き合おうとしていなかった。

『私達も頭を抱えているんですよ、稽古事だってただじゃないってのに、一体どうすればいいのやら…』
『梅も一緒に習わせたら、お凛も変わるかもしれないね』

 佳乃がそう言った時の、お吉と源一郎の安堵の表情を、佳乃は今でもよく覚えている。お吉も源一郎も、実はそれが、お凛を動かす一番いい方法だとわかっていたのだろう。だが、二人に稽古事をさせれば、かかる金も倍になり、その負担は全て佳乃に降りかかる。佳乃ももちろんそれはわかっていた。

 それでもいいと思ったのは、佳乃自身、素直に自分への尊敬の念をあらわす梅に情が湧いていたというのもあったが、それ以上に、梅の筋の良さと学ぶことへの貪欲さを買っていたからだ。
 ある日、佳乃がたまたま、お凛と梅が廊下で遊んでいるのを見た時、お凛が覚えたばかりの舞を、梅にごっこ遊びのように教えていた。その時、お凛の動きを見よう見真似で、真剣に美しく舞おうとする梅の姿に、佳乃は感心したのだ。

 佳乃は、自分が花魁になれたのは、楼主の虎吉が佳乃の筋の良さを認め、引っ込禿としてあらゆる教養や芸事を仕込んでくれたおかげだと思っている。あれがなかったら、今の自分はきっとなかっただろう。だからこそ佳乃は、梅の資質を見捨てておくことができなかったのだ。

「梅、帯のことはいいから部屋に戻りな」
「いえ、見つかるまで探してみます」
「嘘つくんじゃないよ、探すなんてのは建前で、おまえはただあの場から逃げ出したかっただけだろう?」

 図星だったのか、梅は無言で再び下を向いてしまう。佳乃はため息をつきながらも、優しい声で梅に語りかける。

「梅、私は明日ここを出て行く。私がおまえに何か伝えることができるのは今日で最後だ。いいかい梅、人より多くもらえる者は、必ず人より多く憎まれる、これは仕方ないことだし世の常だ。特におまえは、お凛と昔から仲が良い上に引込み禿にまでなった。皆がおまえに嫉妬し憎むようになるのも無理はない」

 佳乃の言葉に、梅は悔しそうに唇を噛み締める。梅自身、自分が引込み禿になれたのは、お凛の影響であることを十分わかっているのだろう。

「だがな梅、ただ逃げて泣いているだけじゃ、ここの者達は誰もおまえを認めないし、状況は何一つ変わらないよ。それに、おまえは最近お凛にきつくあたっているね。あんなに仲が良かったのに、おまえはもう、お凛のことが嫌いになってしまったのか?」
「違う!」

 この時、ただ黙って聞いてるだけだった梅が、初めて大きな声を出した。言った後、自分の口調が乱暴だったことに気付いた梅は、すぐ佳乃に謝ったが、佳乃は、敬語を忘れるほど反応し否定する梅に安心する。

「梅、私はね、おまえが皆に嫌がらせされているとわかっていながら言い訳せず、一人耐えていることを知っているよ。だけどおまえはそのことで、自分がお凛に八つ当たりしていることにも、ちゃんと気がついてるはずだ。
お前は今、お凛を嫌いになったのかと聞いたら、違うとはっきり言ったね。だが今のままでは、おまえは大切な友達を失うことになるよ、それでも構わないのかい?」

 梅は、瞳に溜まっていた涙をこぼし、嫌だと言いながら首を横にふる。

「だったら部屋に戻っておいで、帯のことは気にしなくていい」
「…はい」

 
 佳乃と座敷に戻ってきた梅を、禿や新造達は冷たい目で見やる。そんな中お凛だけは、ほっとしたように梅に笑いかけ駆け寄ってきた。
 あんな態度をとったにも関わらず、お凛が自分の近くに来てくれたことを嬉しく思った梅は、今度は目をそらさずに、お凛の顔を見て笑いかえす。するとお凛はなぜか、今にも泣き出しそうな顔になって梅を見つめた。梅はびっくりしてお凛の顔を覗き込む。

「どうしたの?お凛ちゃん?」

 梅の声に堪えられなくなったのか、お凛は梅の肩に顔を埋め、辿々しい声で梅に答える。

「梅ちゃんが私に笑ってくれたのが嬉しくて…だって梅ちゃん、ここ最近、全然私と目を合わせようとしてくれなくて…なんだかずっと避けられてるみたいだったから…」

 お凛の言葉に、梅は、自分がどれだけお凛に対してひどいことをしていたのか自覚する。
 みんながお凛と比べて梅を悪く言うのは、決してお凛のせいではない。わかっているのに、梅は自分が皆に嫌がらせされる悔しさをお凛にぶつけていたのだ。

「ごめんね…」

 梅は、お凛の肩をそっと抱きよせ、心を込めて謝罪する。

「おいおいお前ら、何こんなところで抱き合ってんだ?」

 と、先ほどまでいなかったはずの源一郎の声に、梅とお凛はびっくりして同時に顔を上げる。いつの間にか座敷に入ってきていた源一郎は、二人と目が合うと、揶揄うように鼻で笑ってみせたが、すぐに二人から目をそらし、持っていたものを佳乃に手渡した。

「佳乃さん、確かにありました」

 それは、先ほどまでなくなっていたはずの、梅の着物の帯だった。

「よかった見つかって、どこにあったの?」

 部屋中探しても見つからなかった帯が見つかり、喜んだお凛が素朴な疑問をぶつけると、源一郎は顔を顰めて言い放つ。

「布団部屋にしわくちゃな状態で置いてあったんだよ」

 源一郎の言葉を聞いて、その場にいる者達が、なんでそんなところに持って行ったのかと、小声で梅を批難する。梅は、布団部屋なんぞに帯を持って行った覚えなど全くなかったが、直接言われてるわけではないので、何も言い返すことができない。

「源一郎、ついでにそこの箪笥から、一番上に入っているたとう紙を出して広げておくれ」

 佳乃は、針の筵のような状態である梅を気に留める様子もなく源一郎に声をかけ、源一郎は言われた通り、箪笥からたとう紙を出し丁寧に広げていく。
 その中に包まれていたのは、目が眩むほど美しい金糸で花鳥の刺繍が施された立派な帯だった。

「梅、しわくちゃになった帯の代わりに、おまえにはこれをやろう」
「ええ?」

 佳乃の言葉に、源一郎は驚きの声を上げ、周りの禿や新造たちも、一体どうしてと騒ぎ出す。

「これは私が初めて花魁道中した時に身につけていた帯でね、柿崎の家に持って行こうかと思ってたけど気が変わったよ」
「…え…あ、あの…なんで」

 佳乃の真意がわからず、梅は喜ぶどころか狼狽していた。

「まあ、お前がこの帯に相応しい遊女になれるかどうかはわからないが、猫に小判だったなんてことにならないように、私に恥をかかせるんじゃないよ」

 だがその言葉で、梅は佳乃が自分に帯を譲ると言ってくれた意味を理解する。

「あ…ありがとうございます!」

 嬉しさのあまり、梅が声を震わせ佳乃に礼を言うと、一人の新造が佳乃の行動に異を唱えた。

「ちょっと待ってください、何でそんな子に、こんな立派なものをあげるんですか?」
「そんな子とはどんな子だい?」
「…」

 佳乃が聞き返すと、その新造は、ぐっと黙って俯いた。佳乃はそれ以上問い詰めることをせず、部屋にいる者達を見渡し語りかける。

「お前達、わかっているだろうが明日私は玉楼から出て行く。これからはあんた達がこの見世を支えていかなきゃならないんだ。他人を妬んで陥れている暇なんてないよ」

 佳乃の言葉に、皆言葉を飲み込み静まりかえったが、つい数ヶ月前に入ってきたばかりの幼い禿が、「行っちゃ嫌だよ」と泣き出した途端、それがまるで合図でもあったかのように、その場にいた者達が皆一斉に泣き出す。

 佳乃は、全てにおいて特別な花魁だった。
 賢く、美しく、人の心の機微を見逃さない。この場にいる新造や禿達は皆、そんな佳乃花魁を心から慕っていたのだ。

 自分のために泣いてくれる皆の様子に後ろ髪引かれながら、佳乃は一人一人に礼を言い、玉楼に残る者達の幸せを切に願った。


 次の日の朝、迎えにきた柿崎とともに、佳乃は玉楼から去って行き、梅とお凛は、佳乃の後ろ姿が見えなくなるまでずっと見送った。

「私らもいつか、佳乃姉さんみたいに、本当に好きな人と一緒にここから出て行けるといいね」

 梅の言葉に、お凛は「そうだね」と笑顔で頷く。梅はいつの頃からか、両親が迎えに来るという話はしなくなり、お凛もそのことは言わなくなった。
 二人はすでに初潮を迎え、刻一刻と、遊女として見世に出られる年齢に達しようとしていた。


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