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「望郷」第一話

 窓の外では、昨夜から降り出した雨が、明け方になっても暗い闇夜の雲を伝い、いまだ静かに落ちつづけている。
 桐島が帰り、一人シャワーを終えた俺は、乱れたベッドを心持ち整え、再び布団の中へ入った。半身を起こしたまま、サイドテーブルに置いたタバコに火をつけ、天井に向かって消えていく煙をぼんやりと眺めていたら、ライン通知の音が小さく響き渡る。灰皿で火を消し携帯に目線を落とすと、液晶画面に60点という数字が見え、一気にげんなりしてため息をついた。

(何が60点だよ、やってる時に恋人ののろけ聞かされるこっちの身にもなれっつうの)

 桐島とは、ゲイバーダチュラのママ、サリーさんの紹介で知り合った。医者で恋人もいるくせに、ノコノコセフレの元へやってきて点数をつける桐島は相当ヤバイ人間だが、学歴や肩書きと人間性が必ずしも一致しないことなど、一時期芸能界に片足を突っ込み、あらゆる人間と関わってきた俺は、嫌というほど知っていた。そんな男とダラダラ関係を続けている俺自身、どれだけ最低で愚かな人間かも、十分自覚している。
 
 浮気、不倫、不貞行為にパパ活、離婚。世間では、芸能人や政治家が日常的に叩かれているが、欲望に負けてしまう他人を叩ける人間というのは、きっと人肌が恋しくて焦燥感に駆られることとは無縁な、清く正しい人々なのだろう。
 虚しくなるだけと分かっていながら桐島を呼んでしまったのは、久しぶりにきた母からの電話のせいだった。


『おめおっちゃん《お父さん》のお葬式さ来ねがったんだから、三回忌は来なさいよ』
『んだがら無理だって、死ぬまでおらば拒否すたのおっちゃんだべ。それに、今さらおらが行ったって、女装した息子帰ってきたって白いまなぐ《目》で見られるのおがちゃん《お母さん》達だよ。おらが行ったら兄貴の家族にも迷惑なだけだべ』   『…おめにはまだ言ってねえっけけどね、実は真理さん、真由ぢゃん置いて出て行ったっけのよ。色々言われるのも嫌だがら、今年は家庭の事情ってごどでおらやおっちゃんの兄弟には遠慮すてもらって、身内だけでするごどにすたって皆には言ったでね』    
『はあ?嘘だべ?いづ?』

 驚愕の声をあげながらも、その時俺は、心の奥底で喜んでいる自分を自覚していた。

(全く、32にもなっていつまで引きずってんだか。全てが中途半端なくせに、あんにゃ《兄》への気持ちだけは全然ブレないところ、ほんと自分でも怖えわ)


 先祖代々続く専業農家の次男として生まれてきた俺は、神様が何を間違えたのか、小さな頃から女の子の洋服を着たり、可愛い髪型がしたくてたまらない男の子だった。
 子供のうちは、従姉の悦ちゃんが、慎ぢゃんヘナ子《女の子》みたいにめんごい《可愛い》から似合う!と髪を結んだり、スカートを履かせてくれるのを、両親も笑いながら見ていたが、小学生になり、おらもスカート履いで学校さ行ぎだぇと泣いた時、母が心底不快な表情を浮かべたのを、今でもはっきりと覚えている。
 
 心配して父に相談したのだろう。俺は父に、このたがらもの《馬鹿者》が!二度とへな《女》の格好がすてえなんて言うな!と殴られこっ酷く叱られた。それでも、小学校低学年のうちは、中々男らしくできず、俺はすぐにクラスの奴らにおがま!といじめられるようになる。そんな俺を、いつも庇い助けてくれたのが、5つ年上の兄、誠だったのだ。

『大丈夫、慎司は変でねよ。いずめられだらすぐおらに言うんだぞ!あんにゃ《お兄ちゃん》が助げでけっから!』

 俺は、物心ついた頃から優しい兄が大好きで、小さな頃の夢は何の迷いもなくあんにゃのお嫁さん。うちは農家だったから、土日は家族で遊園地や旅行にお出かけなんて滅多にできなかったけど、どんなに大変な農作業も、兄が一緒なら全然苦にならなかった。
 でもだからこそ、クラスの奴らに、兄貴もおめと同じおがまだ!きも兄弟!と揶揄われた時は本当に悔しくて、兄まで馬鹿にされてたまるか!と思った俺は、父に頼んで空手を習い、少しずつ男らしくなる努力を重ねていった。
 おかげで中学生になる頃にはすっかり普通の男ぶりが板につき、おかまと揶揄されることはなくなったけど、あんにゃが好きだという気持ちは消えず、その想いはやがて、子供特有の純粋なものではなくなっていく。
 
 田舎が嫌で都会に出ていく人間も多い中、兄は将来は家業を継ぐべく地元の高校から農業大学へ進学し、俺の本当の地獄が始まったのはここからだった。中学二年生の夏休み、兄が初めて彼女を家に連れてきたのだ。

 照れくさそうに彼女を紹介する兄と、優しげに微笑み挨拶する彼女を無視して、俺はすぐさま自分の部屋に閉じこもった。
 彼女への羨望と嫉妬で、狂いそうなほど苦しくて、俺は半ばやけくそのように、兄が彼女を抱いている姿を想像しながら自慰に耽る。果てた後、精液で濡れた掌を見つめ、俺はこの日、自分が異常であることを認識せざるおえなくなったのだ。

 自分で自分が恐くなり、この世から消えてしまいたいと願うほど落ち込み続けていたある日、テレビのバラエティ番組で、女装したおかまタレントと呼ばれる人達が目に入ってくる。
 彼ら(彼女達?)は、とても堂々と男が好きである事を公言し、皆に認められていて、幸せそうで、気付いたら俺は、涙を流し食い入るように彼らを見つめていた。

(俺もあそこに行きたい!たとえ普通の人達と違っていても、幸せに楽しく生きていけるあの場所へ…)

 彼らのようになるには一体どうすればいいのか?田舎に住む無知な中学生なりに考え行き着いた方法は、東京へ行くこと。
 田舎の人間は学歴や肩書きに弱い。いい高校に入って、都内の名の知れた大学に受かれば、親も東京へ行く事を許してくれるはずだ。
 
 その日から、兄への想いを断ち切るように、俺は受験勉強に没頭した。努力の甲斐あって無事公立の進学校に入り、いざ東京の大学へ進学するのを反対された時のために、単発のバイトも始めた。

 そこまでは、中々順調に東京行きの計画を進められていたし、家族の前でも、彼女が遊びに来ている時も、俺は少しブラコンながら、ごく普通の男を演じられていたと思う。だが、兄と彼女の付き合う年数が長くなり、なんの悪気もなく発せられる母の言葉を聞いているうちに、俺は不安に駆られ出した。

『賢ぐでいい子だす、美里ぢゃんがこのまま誠のお嫁さんになってくれたらいいんだげどね』

 当時の俺は高校2年生で、兄は大学4年生。田舎は早婚も珍しくなく、早ければ俺が高3の間に、二人は結婚してしまうかもしれない。
 今までは、たまに家に来るだけだったからなんとか耐えることができた。でも、兄が結婚したら、俺は兄と彼女が幸せに暮らす姿を、すぐ近くで見ていなくてはいけなくなる。
 結婚の具体的な話など出ていないのに一人焦りはじめた俺は、もうこれ以上普通の男や弟のふりをするのは限界だと、卒業を待たずに家出する決心をしたのだ。

 せめて高校卒業してからにしろ、何て無知で浅はかなんだと、今の俺は、過去の自分の首根っこつかまえて説教してやりたくなる。けどあの頃の俺は、心を殺していないと魂がすり減っていくような世界から、少しでも早く逃げ出したくて必死だった。 
 女の格好がしたくて、男が好きで、実の兄に抱かれたいと本気で願ってしまうような人間の居場所などここにはない。だけど東京なら、あの有名な新宿二丁目なら、自分の居場所があるかもしれない。こんな俺でも、もしかしたら幸せになれるかもしれない。
 俺は、テレビで見えている世界を鵜呑みにし、東京をまるで、夢の理想郷のように思ってしまったのだ。結果それは、正しくもあり、間違いでもあったのだけど…。

 そして、18歳を迎えたばかりの高3の夏、家出決行の日。俺は家族に怪しまれないよう、いつものように農作業を手伝った後、予備校へ行く時間だからと皆より先に母屋に戻る。
 書いておいた置き手紙を座卓に残し、自分の通帳と荷物を持って出て行こうとすると、なぜかその日に限って、一旦家に戻ってきた兄と鉢合わせし、お前何か隠すてんべと問い詰められた。
 俺は観念し、自分は男しか好きになれない異常な人間だから、もうこの家にいることはできないと兄に告げる。

『慎司はおがすくなんかね。男好きだがらなんだっていうんだよ?うず《家》出で行ぐ必要なんてね』

 兄は幼い頃と同じように、俺を否定せずそう言った。

『じゃあさ、あんにゃおらのこど抱げる?』

 自分でもめちゃくちゃな質問だと思ったけど、俺はこの時、何も気づかず彼女と結婚し幸せに暮らしていくであろう兄に、憎しみにも似た感情を抱いた。大好きでたまらないはずなのに、俺が出ていくのはお前のせいだと、困らせてやりたくなった。
 でも兄は、俺の言葉を真っ直ぐに受け止め、清く正しい残酷な言葉で応える。

『それどこれどは違うべ?おらは慎司がへな子《女の子》だったどすても抱がねよ。おめは大事な家族だがら』

 男云々以前の問題。俺がこの人に愛される可能性は0。

『あんにゃ』
 
 いつものように呼びかけて、俺は兄に不意打ちのキスをする。

『ざまあみろ!弟どキスすたおめも、これでおらと同類だ!』

 固まる兄をじっと見つめ、俺はもう二度と会うことはないだろう兄に捨て台詞を吐く。

『おらはあんにゃのこと大好きだったよ。家族じゃなぐ、男どすで』

 朴訥な男らしい見た目に似合わぬ柔らかい唇と、身体に染み付いた、太陽と土の混じった男の匂いを記憶の宝箱にしまって、俺は逃げるように家を飛び出した。

『…慎司!』


「…やば!」

 久々にあの日の唇の感触と、慎司と呼ぶ兄の声を思い出し、手が股間に伸びそうになった俺は、慌てて手を引っ込める。せっかく桐島を呼んで性欲を解消したのに、また一人で抜いたら意味がないし体力を消耗するだけだ。

「ったく、あんにゃの思い出に浸りながらやりたかったのに、あいつは喋りすぎなんだよ」

 お門違いの八つ当たりをして、俺は、新しいシーツに取り替えたばかりの、寝室のベッドに潜りこむ。あれから15年、兄とは一度も会っていない。なのになぜ、今だに強く焦がれてしまうのか?案外会えば、すっかり老けたおっさんになったなと落胆し、ただ遠き日の思い出に変わるのだろうか?

「寝よ寝よ」

 母の電話は、父の三回忌の話だったというのに、兄のことばかり考えてしまう自分を親不孝だと呆れながら、俺は目を閉じ眠りに落ちた。



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