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楢葉町に来た経緯。後編

 みなさまこんばんは、女将です。年末の大掃除に取り掛かかられている方も多いでしょうか?結のはじまりは26日が年内最後の営業日で、お客さま達とこの一年を振り返り、大いに語り合い、心穏やかな仕事納めの夜を過ごしました。お越しくださったみなさま、ありがとうございました!

 さて、こちらのnoteマガジンはワタクシ女将と、「みにおかみ」ことインターンの千乃ちゃんが、それぞれの視点から往復して書かせていただいている100日間の連載です。前回、東京生まれ東京育ち・完全なるシティガールの千乃ちゃんが、なぜわざわざ福島県楢葉町に来て結のはじまりで働くことになったのか、ということを、率直な言葉で綴ってくれました。

 本日は、千葉県出身→東京勤務10年→32才で郡山に転職したワタクシが、同じ福島県でも沿岸部の楢葉町に飲食店を開くまでの経緯を書かせてください。(前編ももし良ければご覧ください。)

郡山⇄広野 「距離」

 建築士に憧れて、挫折し、でも何者かになりたくて転がり続けてきた自分を、2016年春、郡山にあるその設計事務所が雇ってくださいました。所員の人数こそ少ないものの、その事務所では震災以降、復興に関わるプロジェクトや建築物の設計に精力的に取り組んでこられ、私が勤めた当時は、広野町に新築される学校の設計に取り組んでいました。

 それまで私は、東京に住みながら福島県各地に通ってフィールドワークを重ねて居たのですが、この転職を機に初めて福島県(郡山市)に転居しました。住んでみて初めて、同じ福島県とはいえ、郡山のあるいわゆる「中通り」と、フィールドワークでよく通っていた広野町がある「浜通り」とが、物理的にも精神的にも遠い場所にあるのだということを実感していきました。

 その「遠さ」は、津波の被害があったかどうか、放射能汚染の被害があったかどうか、避難指示が出されたかどうか、補償の対象かどうか・・・等の被災状況の違いから来るように感じられました。

 「当事者」かどうか。郡山も、大変な地震と放射能汚染による風評被害などに見舞われた当事者であるのに、そこに暮らす人々でさえも、さらに複雑な状況にある浜通りの人々との間に「内と外」の境界線を持っている。その境界線の「外から内を見ている」という感覚を、東京から通っていた時よりも強く、もどかしく感じてしまうようになりました。
※あくまで私の主観です。郡山の方々が傍観者であるというような意味ではなくて、わたしがもっと内へ内へと入り込みたかったために生まれたもどかしさだったと思います。

楢葉町に初めてできた拠り所「木戸の交民家」

 少し遡って2015年9月、広野町の北隣にある楢葉町の避難指示が解除されました。共にふくしま復興塾を卒業した仲間の中で、いち早くその楢葉町に一軒家を借りた人がいました。のちに「木戸の交民家Co-minka」と名付けられたその家は、最初は仲間たちの集いの場所として、月に一回のDIYイベントを催すことからはじまり、翌年には周辺の田んぼで稲作をはじめたり、その翌年には民泊をはじめたりと、多様な属性の人々が集まる場所として用途を拡大して行きました。

 私はこの家の立ち上げ当初に友人の一人として手伝わせていただき、家を掃除してみると古文書のようなものが出てきたり、囲炉裏を直してみるとその家を建てた大工さんの腕の良さを知ることができたりと、少しだけこの土地の「風土」や「過去」に手で触れることができたような感覚を得ました。

 ある日仲間たちと縁側の修理をしていると、お向かいに住む地元のおじさんが、みかんを持ってきて私たちにくれました。「なにやってんだい?」と優しく聞きながら。その日自己紹介をさせていただいて以来、この町に私のことを「かおりさん」と名前で呼んでくれる人が初めてできました。

外科的なアプローチと内科的なアプローチ

 平日は郡山で働き、週末は楢葉町へ通う日々を過ごしました。私の気持ちは、「それでもこの土地でなければ生きられない」と選択した人々の、その土地との繋がりの正体へと、強く惹かれていきました。人と土地との繋がりの間に、建築もあるはずですから、設計の仕事を通じてそれを探究し続けて行けたらよかったのですが、2016年当時の楢葉町は、まだ土木工事や除染や公共建築の再建といった、インフラ整備の段階にあったため、この土地で生きることを選択した人々の住宅再建などに関わる仕事は、次の段階に控えていたのだと思います。

 そのような状況へのジレンマの気持ちを設計事務所の所長に吐露したことがありました。

「東日本大震災による被害が大きかった東北3県の内、岩手県や宮城県は、土木工事や建築工事などの"外科的なアプローチ"によって復興の道を進んでいますが、福島県は原子力発電所の事故による避難の長期化という特殊状況もあり、異なったアプローチが必要になっています。心やコミュニティへ働きかけるような"内科的なアプローチ"がまだまだ必要で、古谷さんはそちらに関わりたいのかもしれませんね。」

 所長からいただいたこの言葉をきっかけに、私は長年憧れ続けた設計の仕事を辞め、コミュニティの再建へ働きかける方向へと動き出しました。その場所は、私にとってほんの少しでも「内に触れている」と感じることができ、私のことを名前で呼んでくれる地元の人が居る楢葉町であることが自然でした。

 ここから、物件との出会いや、事業計画を書いて起業支援金をいただく、などの様々な過程を経て結のはじまりの開業へ至ったのですが、楢葉町に住むことになった経緯は、以上の通りです。長文読んでくださり、ありがとうございました。

 



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