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楢葉町(ならはまち)に来た経緯。前編

 「毎日更新」と銘打ちながら、3日目にして日を跨いでしまいました・・・女将です。今夜からは「みにおかみ」こと中窪千乃ちゃんにバトンタッチしますので、おたのしみに!

 今でも「なんで楢葉町に来たの?」と聞かれることが多いものですから、この町に移住するまでのことを書かせていただければと思います。(長くなっちゃったので前編後編に分けました汗)

東京

 それまで私は、建築に関わるデザインや設計の仕事に憧れていて、東京でいろいろな職場を転々としていました。建設土木会社の派遣事務員→あこがれていた建築デザイン事務所に転職してタイで勤務→挫折してやりたいことがわからなくなる→企業の受付やってみたり→太陽光パネルのメーカーで図面を書く仕事や→出版社の在庫管理に関わる事務など・・・とにかくいろいろな職場を経験したことは、今に活きていると胸を張って言えます。(そう言えるようになってよかった・・・。)

 2011年の震災の当時は、東京の麻布十番の近くの東京タワーの足元のあたりで働いていて、揺れに驚いてビルから降りて上を見上げると、東京タワーのてっぺんがグワングワンと揺れていて、少し呑気にそれを眺めていたのを覚えています。オフィスに戻り、社員がテレビに釘付けになっているので近づいていくと、東北の津波の映像が流れており、現実のものとは思えない光景を、どう捉えることもできなくて、驚き以外の感情が追いついてこなかったと思います。その日の夜に自分で企画したライブイベントを新宿近辺で予定していて、どうしても関係者と連絡を取らなきゃいけないのに電話もメールもパンクしていて連絡が取れず、とにかく現場にいかなければと新宿へ向けて歩き出してしまい、その道中に、いろいろなものを目にして、ことの重大さがだんだんわかっていった、という感じでした。東京にいた私の、リアルな経験はこんな感じでした。

 それからすぐに被災地へ向けて行動した、ということではないのです。当時20代後半に差し掛かかっていて、自分の将来を考えたときに、「もう一度、人の暮らしの安心安全を守れるような建築の仕事がしたい。」とジワジワと思うようになり、社会人でも通える夜間の建築学校に入り直しました。

その学校を卒業し、2015年春、いざ自分はどこで働こう!?と考えたときに、選択肢の一つが「東北」でした。

東京⇄福島県郡山市

 インターネットで検索したら、東京から一番近い東北は福島県でした。(当時はその程度の理解度でした。恥ずかしながら。)そこで福島県内の設計事務所を手当たり次第に検索し、その中でいくつかの事務所にインターンのお願いをメールしたところ、郡山の設計事務所が受け入れてくださり、1週間ほど、当時の仕事を休んで郡山に働きに行きました。そのときに宿泊したのが、郡山に唯一存在したゲストハウスで、そこのオーナーが、「こういうのがあるので古谷さんみたいな人にいいかもよ」と教えてくれたのが「ふくしま復興塾」でした。ふくしま復興塾というのは、震災後の逆境の中、なにかやりたいという想いのある人達を育てようとする約7ヶ月間のプログラムで、カリキュラムの中に被災地域のフィールドワークなども含まれていたので、福島のことをぜんぜんわかっていない自分も学べるかもしれないという思いで入塾しました。その7ヶ月間は、講座やフィールドワークがあるたびに東京から郡山・福島・広野周辺へ通っていました。この塾で出会った仲間たちとは、今も大切な同志です。各地でそれぞれに活躍するみんなとの繋がりに、今も生かされているのを感じます。

郡山⇄広野

 復興塾を卒業し、郡山でインターンを受け入れてくださった設計事務所にそのまま就職することができました。その事務所で扱っていた物件のひとつが広野町にあり、仕事でもプライベートの時間でも広野町に通うことが多くなりました。

 東京から通っていた頃は、福島県を一括りにして捉えていました。しかしながら郡山に居ながら浜通りに通ってみると、おなじ福島県内でも津波や原発事故の被害を直接受けたエリアとその他のエリアとでは、人々の状況が大きく違うこと。郡山に居ながら、どんなに広野町に思いを馳せようとしても、本当の気持ちを理解することが困難なこと、などに気づいて行きました。

 自分が個人的に広野町に通って感じることと、郡山に勤めながら広野町に思いを寄せることとのギャップに、違和感を感じるようになって行きました。

そうしてせっかく雇っていただいた設計事務所をたったの一年で辞めるのですが、それについてはまた来週、聞いていただければと思います。


 

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