存在することの習慣(おばけのジレンマによせて)

絵・文
岡本 秀 Shu OKAMOTO
(美術作家、漫画家、黒木結のとなりにいた人)

サイモンフジワラという美術家の作品のひとつに、『ジョアン』という作品がある。
それは彼の先生である美術教師ジョアンのトップレスの写真が拡散されて、悲惨な報道にさらされた出来事をもとにした写真とビデオの展示だった。黒木結とは、その作品に関する、フジワラの美術手帖でのインタビューについて話をすることがある。
『おばけのジレンマ』についての感想を、まずはこの作品に関するインタビューでフジワラが語ったことの引用から始めることにしよう。
彼は、ジョアンという人物が最終的にどうなったのかという質問に、このように返答している。

彼女はどうしているか、彼女は作品についてどう考えているか、誰もがこの質問をします。
私は「彼女に聞いてください」と答えます。しかしもしそうしたいなら、あなたは彼女との関係を築かなければならない。彼女に会い、彼女のことを知り、彼女の人生に関わらなければならない。
そうなると、それはまったく別の話になってくるとわかります。だから私はいつも、こう言うのです。
「あなたの質問は十分にわかりますが、あなたは本当にそれを知りたいわけでもなければ、知る必要もないのです」と。それは、ただのゴシップなのです。
(美術手帖 2017年11月号)

さて、おばけのジレンマの展示はひとの住む住宅で行われた展示である。
一般的なホワイトキューブとは違い、そこで黒木は「在廊」しているのではなく「生活」している。
また、この展示には3つの部屋が登場すると、展示ステイトメントは記述している。
その部屋のひとつROOM:traceにおいて、黒木はこのようなスコアを付言している。

「 」「 」「 」が
不在のとき、ROOM:Trace内で
「 」「 」「 」
を言わない。

黒木結は
•「」内について直接的な質問には答えない
•どうしても言わなくてはならないとき、
できる限り別の言い方を模索する。
•別の言い方について、嘘のないようにする。

このROOM:Traceで、黒木は生活をしている。
(ひとを招いて、話をしたり、ごはんをつくったり、ぼーっとしたりしている。)
その部屋には、3つの「」が提示されているが、それは私たちにはわからない。たぶん、展示をみても読み取り不可能だ。それを知るためには、黒木と関係を築いて、ちゃんと聞かないといけないということらしい。
またこのTraceは、のこり2つの部屋 ROOM:Shade ,alcove の間に位置していて、これら2つの部屋の謎をとくのに不可欠の手がかりがある。
展示の内容に関しては、ここではあまり話すつもりはないが、さわりだけでも説明しておこう。そのあいだ、黒木の生活空間に、つねに目に見えない3つの「」が展示されていることを頭に留めておいて欲しい。

さて、先ほども述べたように展示は3間にわかれている。そして、そのうち2つの部屋は全くおなじつくりになっている。ただし、入り口はいってすぐの一間目の部屋には明かりがなく、暗い室内に展示物がある(Room:Shade)。もう一つの部屋、黒木が生活しているTraceには、あるものが欠けている。
なにが欠けているかは、一間めの暗い部屋をじっくりと観察することでだんだん分かってくる。ただし部屋が同じつくりになっていることなど一連の操作は、黒木が自身で指摘しない場合には、自ら発見する必要がある。その場合は、部屋の左隅に特徴的におかれた白いカラーボックスと、暗い室内でだれも利用するはずがないのに中央に置かれたちゃぶ台(黒木がいるところにあるちゃぶ台と同じだ!)がやさしいヒントになるだろう。
そこまで気付くことが出来たら、あなたは一間めに置かれた展示物(人のシルエットの陶器、おばけ?後ろ姿、なにかわからない)の存在が、2間目の空間となんらかの対応を持っていることにも思い至る。
それはどんな対応だろう。ぼくらは黒木に対し、その疑問を投げかけることができる。
最後の部屋、Alcoveについても同様だ。展示場所の住宅には入れそうな部屋は2つしかない。しかし、そこでぐっと興味を惹かれるのはTraceの部屋を仕切っているふすま、一間目のShadeと間取りを同じくするために[つくられた]ようにみえるその仕切りの先にある空間…。しかし、3つめの空間がどこにあるのか、正確にはぱっとわからない。それを知りたいとき、私たちはまた黒木に尋ねることができる。

話を戻そう。
「 」「 」「 」
ここに入る3つの要件を知ることはできない。
これについて、一体何人が尋ねて、彼女はどう答えたのだろう。
(それを本当に知りたいならば、私は黒木自身にそれを尋ねなければならない。)

たぶん、私や、彼女の周囲の事情を深く知っている人なら答えをある程度思いつくだろうけど、それは大したことではない。(私はその正解を知らない。)
要は、それを知るために私たちはそれをゴシップにすることなく彼女に尋ねなければならないのだ。
それに答えたいならば彼女は答えるだろうし、答える必要がないと思っているなら答えないだろう。
なぜ私たちは彼女に直接尋ねなければならないのだろう。
展示の空間に入ったときから、私たちは知らず知らずのうちに、黒木本人を媒介として作品を体験させられている。それは黒木と、黒木の大切なものを「それ自身」として会話するための契約、サイモンフジワラの言うゴシップーうわさ話的な三人称のものにさせないための約束なのである。
直接尋ねるという、本人の媒介を前提とした展示体験は、黒木のいかなる展示作品を鑑賞するにあたっても関係しているという点で、黒木の根本的に重要なスタンスを明示しているように私には思われる。
(そもそも展示に行くためには、黒木に直接連絡をとって招待状を送ってもらう必要がある。まあ招待状なくても行っていいのだけど。)
つまりそれが、黒木結が求める世界へのものさしなのではないか。あるいは、黒木と社会(黒木のうわさをするひと、と言ってもいいかもしれない)との理想的な距離感なのではないか。この距離間こそ、『おばけのジレンマ』というタイトルが示す態度なのではないか、ということだ。
そういえば、ロランバルトがこういう風に言ってくれていた。

うわさ話はあの人のことを、彼/彼女に還元してしまう。
この還元のことが、わたしには耐えがたいのである。
わたしにとってあの人は、彼でもなければ彼女でもない。
あの人には固有名詞しかない、その正当な名前があるだけなのだ。
(中略)
わたしにとってあの人は、単なる記号の指示対象などではありえない。あなたはあなたでしかないのだ。
わたしは、「他者」があなたについて語ることを望まないのである。
(恋愛のディスクール 276−277p)

「 」「 」「 」に入る言葉を私はしらない。
しかし、それはバルトが言う通り、まぎれもなく「あれ」とか「それ」とか「彼/彼女」に還元してしまえるようなものではないだろう、そのことを私は確信している。
そのことがなんとなくわかるからこそ「」というおばけに対して、私たちは無理にその存在をひきずりだしたりはしない。
じゃあその正体がわかったら、どうなるんだろう、おばけ自身も怖いし、おばけじゃない人も怖い。
(おばけはもう人ではないので、姿が見つかったら、いろんなうわさにさらされてしまう。)
おばけというだけで何か悲惨なものにさらされなくてはいけないのはとてもつらいことだ。
しかし、たとえばそんなおばけ同士であつまって、悲惨な目にあわされた自分たちを必要以上に慰めあったり、人を責め返したり、あるいはおばけであることを隠して存在することも、なにか空虚だ。
黒木が展示の中でデリケートに制作していたのは、こんなおばけの現状のあり方だったような気がする。
そして黒木は、ここから私たちに向けて、おばけへの関心の向け方をも示そうとしている。
それは、私たちの「」や展示物に関しての話し方、つまりうわさの仕方として現れる。
一番怖がっているのは、人を怖がらせてしまうおばけ自身だ。おばけは、だからこそ、自分がおばけであるといっても、だれも必要以上に気にしないような世界づくりをしなくてはいけない。
いや、おばけがおばけですと言っても、だれも気にしない。そんな透明性、そんな無関心さの方が、よっぽどおばけらしい。
自分がおばけと言っても誰も気にしないということは、おばけが本物のおばけになる瞬間であり、あるいはおばけがおばけじゃなくなる瞬間なのだ。まさに、おばけのジレンマだ。
ゴシップとして無思慮に話される存在であっていい他者ではなく、数多くいる「あなた自身」の内のひとりでしかないという、やさしい無関心さで話される他者になれるのなら、それはきっとだれのことも怖がったり、責め立てたりしなくていい世界なのだと思う。
黒木が制作しているのは、きっとそのような環境なのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?