ふたつの"人間"

おもしろい言葉を知ったので記す。
"人間"を表す言葉にはふたつあるらしい。
" humam doing " と " human being "

正しい定義の話が気になる方には是非各々調べていただくとして、ここでは私の思うことを書いていきたい。

" human doing " とは、まあ " する人間 "ということで大きく違いはしないだろう。
何をするのか、何をしたのか、何ができるのか
生み出す価値に重きを置いた言葉のように思う。

一方、" human being " は " いる人間 "
そこにいる、ただ在ることに価値を見出している言葉だと思う。

doingは分かりやすい。
数にして、可視化することもできる。
フォロワー数、偏差値、月収、経験人数なんかも入るのだろうか。
この言葉を知ったおかげで、私たちがdoingに振り回されていることに気がついた。
SNSの出現も無関係ではないはずだ。

TikTokなんかでフォロワーの多いあの子や
高学歴を手に入れた彼
すごいなとは思うけど、おもしろくないなとと思っていたことが妙にしっくりきた気がした。
彼らは "human doing"において素晴らしいが
"human being"の部分、個人としての人間味のようなものが見えてこないのだ。
私が話をしたいのは「フォロワー○○人のあの子」でも「○○大の彼」でもなく、"あなた"なのだ。
あーーー言語化できてスッキリ。

私は見抜きたい。
数や肩書きの奥にある本質を見抜いて、早くdoingから抜け出して、ただの個人として、私として存在したい。

インパルスの板倉さん(大好きです)が
「 お金は努力や才能に払われてるんじゃない。知名度に払われているんだ。」
とおっしゃっていたけれど、それは私にとっての衝撃で、そして本当のことだと思った。
doingは、数の持つ"可視化"という機能でいろいろなことを有耶無耶にする。
私はまさにこういうことを見抜きたい。

フォロワー数が示すものはきっと人気じゃない。
偏差値が示すものはレベルじゃない。
なんか、二番煎じのような手垢ベトベトのことしか言えないのだが、こう、伝われ、!(放棄すな)

何者かになりたい人が多すぎると思う。
認めてほしいって思っている人が多すぎると思う。
そんなに肩肘張らなくていいと思うのだ。

だってそもそも、いいね!はその人自身に向けているわけではなく、そのコンテンツ(写真や動画)に向かっているわけでしょ?
いいね!されることで自分が認められたような気になるのは、ちょっと、本質とズレているのでは?と思う。

感じなくていい不安や、焦りに振り回されないように
doingじゃなくてbeingを認められるようになりたい。

生き抜く上でdoingももちろん大事だろう。
でも、人間らしく豊かに生きるために、beingをもっと大切にできたらいいなと思う。
そのために、本質を見抜いていたいのだ。

そして、ちゃんと責任と説得力を持って
何者にもならなくていいんだよ、と
そのままでいいんだよ、と言える大人になりたい。


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