見出し画像

神は何でもできる。人間になることも。パンになることも。

感染症の影響で、2020年のはじめから様々な教会で、オンラインでの礼拝やミサの中継配信が模索されたことは、多くの人が承知している通りです。
2020年時点では私はプロテスタントの信徒だったので、zoom配信の礼拝を見て、郵便振込で献金を捧げる日々でした。

しかし2021年8月第一日曜日、驚きの出会いがありました。
教会生活の様々な問題に悩んでいた私に、カトリック信徒の友人から「あの教会はどうかな」と、規模の大きなカトリック教会を紹介されたのです。
カトリックのことは何も知らなかった私ですが、YouTubeでミサの配信をしている様子。
思い切って日曜日の午後、その教会のYouTubeチャンネルを探して、午前に配信されたミサを再生してみました。

かつて私はルーテル教会と少しだけ関わりがありました(所属教会はルーテルではなかった)。
ルーテル教会の式文を使った礼拝にも馴染みがありました。
カトリック教会のミサは、それを何となく思い出させるものでした。
しかしルーテル以上の厳粛さと大きなインパクトがあり、しかも説教は短い(結構大事です)。
そしてその日の司式と説教はお年を召した(でもお元気そうな)スペイン人の神父様によるもので、とても優しく心に響きました。

私はその1時間のミサ配信を拝見して、直感的にここだと心に決めました。
いえ、そのミサによって、主にとらえられました。
その後がんばって入門講座に通い、2022年春に改宗式を経て、今年2023年の夏前に堅信式も経て、ここまで導かれてきました。

前置きが長くなりましたが、YouTubeによるミサ配信のおかげで、今でも過去のミサが拝見できます。
2020年の枝の主日(棕櫚の主日)から配信を始めたご様子。

このところカトリック教会における「聖週間(受難週)」の重要性に気づき始めた私は、まだ見たことのなかった2020年、2021年の聖週間のミサを見始めました。
枝の主日、聖木曜日、十字架の道行、聖金曜日、そして復活徹夜祭、復活の主日。
その中でも聖木曜日、聖金曜日、復活徹夜祭を見ています。

毎年同じことを繰り返すのですね。
聖書箇所も答唱詩編もお祈りもみんな同じ。
同じプログラムの繰り返しを毎年毎年変わらず繰り返す。
これは(せっかく動画があるのだから)見なければ損です。
頭に心に叩き込みたい。染み込ませたい。
その一心で、折に触れて見返しています。

今日は2021年の聖木曜日「主の晩餐の夕べのミサ」を見ていました。
また別のスペイン人神父様が司式と説教をなさっていました。
そのお説教のパワフルなこと!
あまりの力強さに引き込まれ、知らずに涙が出てきそうになりました。

神様は人間をあまりにも愛しておられる。
愛とは。愛とは自らを与え尽くすこと。
あまりに人間を愛してくださるので、人間(イエス)になってくださった。
そしてあまりにも愛しておられるので、食物(パンとぶどう酒)にまでなってくださった。
神の愛は、愛を知らない人から見たら、馬鹿みたいに見えるほどの愛。
それが神様の愛!
だから私たちがいただいているパン(ご聖体)は神そのもの。
私たちは神様を食べている。
ミサに与り、食べている。いただいている。
何という神秘。何という秘密。
こんな話は数十年クリスチャンをやっていて、聞いたことがなかったです。
教会のミサは日曜日も平日も門戸が開かれています。
いただかなければもったいない。
何というお恵みでしょう。
神様の愛と恵みは、何にも増して先行するのだと、改めて実感しました。
神父様のお説教で、目の覚める体験をさせていただきました。

聖週間は毎年、旧約の過越の箇所を読みます。
神のお言い付けに従い、傷のない子羊の血を柱とかもいに塗る。
すると神はその家を過ぎ越す。
血を塗るのを忘れたら、撃たれる。
だから、キリストイエスは最後のいけにえ、世の罪を取り除く神の子羊なのだなと、否が応でも思い知らされます。
聖週間の典礼は一年のうちでどんなにか大切なのか、思い知らされます。

プロテスタント教会にいた時代が無駄だったとは思いません。
あれは長い準備の時間でした。
今、私はこうしてカトリック教会に所属して、心から感謝しています。
主の導きに感謝です。

神様は何でもできる。
人になることも、食べ物になることも。
そんな神様のお恵みを溢れるほどにいただいている私たち。

お説教をしてくださった神父様のような熱烈な信仰に、私もあやかりたい。
真似したい。

主よ、私がいつも心が燃えていられるように、導いてください。
少しずつでも。
遅い歩みでも。

私に祈ることを教えてください。