見出し画像

ふいに横切り、迎えに来るアレ

アンナチュラルにどハマりしている今を機に、“死ぬこと”を自分なりに整理してみた。


▽▽
最近、「思ってるよりずっと近くに、死ぬことは存在してるんだな」と思った出来事があった。


会社から帰り道、横断歩道の信号が青になるのを待ってたとき。対向にいた男性は電話をしながら、信号を無視して渡ろうとした。
「あー渡っちゃうんだ」って見てたらクラクションの音がどんどん大きくなるし、車があっという間に迫ってきてた。
タイミングが悪かったら轢かれてたかも…っていう瞬間だった。


まぁ、その男性はちゃんと止まったから大丈夫だったけど。
もし間に合わなかったら…と思うとぞわっとした。
TVやネットニュースで毎日のように流れる、どこかで誰かが亡くなった交通事故。画面の向こう側で起きたことは案外、近くに隠れていることに気づいた。

今回の場合でいうと、普通に信号を守れば済むことで、運転手にとっては、とばっちり以外のナニモノでもなかったと思う。
でも、この一瞬を見てた私には死ぬことが思っているより近くにあることを感じさせるものでもあった。
(その日、何も起こらなくて本当によかった)

アンナチュラルの神倉さんのことば(第8話)を借りると、

「たまたま命を落とすんです。そして、私たちはたまたま生きている。たまたま生きている私たちは、死を忌まわしいものにしてはいけないんです。」


“たまたま”生きて、死ぬ。

私は死ぬときどうするんだろう。
「“たまたま”が来た」って受け容れられるのかな。
大切な人の死を“たまたま”で受け容れられるのかな。

当たり前のように、明日がくると思って予定を立てる。
大切な人に大切なことを言えないまま「次こそは」と先延ばしにする。
それができるのは死という別れが、思ってる以上に近くにあることを忘れているから。

いつか死ぬことは決まっているし、生きるものすべてにやってくる。
だからといって、それがずっと頭に浮かんでたらやっぱりしんどい。
だから死ぬことを意識しないような頭になっているんだろうなと思った。
そして、自分以外の死とすれ違うたびにふと思い出すようにできてるんだろうなと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?