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わたしの俳句甲子園

こんにちは、雨華です。
初のnote投稿がこれでいいのかは定かではないですが笑
でも俳句甲子園に蹴りをつけるために、自戒と反省のために書こうかなと思います。
どうぞごゆるりと


最後の俳句甲子園

先日、俳句甲子園和歌山会場に参加してきました。

長閑を2-1で制し、蝌蚪が1-2で負けました。
お互い負けた数が同じなので、旗数勝負になり、
すると旗の数も同じで。その場合作品点と鑑賞点の合計点での勝負になるのですが、10点差だったかな、そのくらいで負けました。記録していないのでなんとも言えませんが、おそらく鑑賞点だったと思います。長閑の時点で鑑賞9割相手に取られていたので。
その後投句審査も通らず、私の俳句甲子園lifeは特に有終の美も飾ることなく淡々と幕を下ろしました。

わたしの俳句甲子園史


わたしは中2の頃当時の顧問に見せていただいた俳句甲子園のDVD
(https://www.amazon.co.jp/俳句甲子園ドキュメントDVDブック2019年度版-あの日、涙の向こう側-彼らは何を見たんだろう-17音の物語-DVD-NPO法人俳句甲子園実行委員会/dp/4594083390)
を当時の顧問に部活中見せていただき、そこで立教池袋高校さんの“立教劇場”に憧れて俳句をはじめました。当時はコロナ渦でオンライン句会や指導添削をいただいていて。毎日句を出してそれがアドバイスや添削とともに返ってくるのがとても楽しくて。きっかけは俳句甲子園でしたが、俳句の楽しさはそこで得られたと思います。

そして、中3に上がると俳句以上に宝塚が好きになっちゃって笑まあ俳句もしていましたが、今でもわたしがもっとも真面目に句作していたのは中2の頃だと思いますね笑
あとは中3の頃は全くではないですが中学生向けの賞がないことにも苦しみましたし、やっぱり俳句甲子園出れないんだっていうもどかしさとかがあって、俳句と少し距離ができてしまって。

そして高1ようやく出れるようになって。ただ人が足りずに同級生2人に頼み込んで出てもらいましたが、彼女たちも案外なんて言葉を使うと失礼ですが、良い句を出してくれて。高1という思春期真っ盛りだったので部活中のおおかたは誰かと誰かが喧嘩してるみたいな地獄絵図みたいな状態でしたが、それもやっぱり今ではいい思い出で笑(でももうやりたくないです)
大阪大会(25th)では高1だけで5人、しかもディベートもかなり自分よがりと言うか、俳句甲子園的なものができていたかと言われれば怪しかったのですが、とんとん拍子に進んじゃって。そして会場決勝戦で洛南さんに「朝寝」で先鋒中堅と2本取られて呆気なく終了しました。この時、1番辛かったのが特にしっかりと対策を講じたわけでないのに、主将のディベートの語り口やあの句のクオリティで決勝戦まで進んでしまったところです。最善を尽くせていたわけではなかったと思います。今より明らか出句数も少ないし、投句前日に部活で大喧嘩して全然決まらなかったり。当時の顧問にはめちゃくちゃ迷惑をかけました。
顧問の話ついでに言うと、全国へ行った代の先輩方(22-23)とは顧問が違うんです。ちょうど長年文芸部の顧問をされていた先生がわたしが高1に上がるタイミングで定年退職されてしまって。そして高2に上がるタイミングでまた顧問の先生が変わって。って言う感じですかね。

そして高2は俳句甲子園地方大会の1週間前にあった高2の修学旅行でコロナとインフルが同時流行してしまって。学校へ帰ったあと1、2日は耐えてましたが、学年閉鎖のために選手に罹患者がいなかったけれど学校判断で出場不可になってしまいました。投句でも上がれはしなかったのでほんと、自分たちの実力不足の面もありましたが、その頃ちょうど仲良くなっていた灘さんがa、b両方勝ち上がりが決まっていたので尚更苦しかったです。
そして本来わたしの学校では勉強コース(普通科)の引退が高2なので、「ああ、ここで終わりか」と納得のいけない状態の中、でももしかしたら来年学校がいいって言ってくれるかもという期待と共に部活を率いる部長として、部活動に取り組み、同時期に務めていた生徒会副会長の仕事もしつつ、過ごしていました。

そして高3。高2からの担任が持ち上がりなこともあって、運良くわたしだけ俳句甲子園に出られることになりました。だけどディベートの主砲である同級生は許可がおりず、他に補欠としてサポートに周りますって言ってくれてた同級生もだめで。今思えばここで運を使い果たしてしまったのかもしれませんね笑
でもわたしは出場できる状況を作ってくださった担任には本当に感謝しかないです。
まあその後は上記の通りですね。
試合対策もはじめてちゃんとしたし、投句期間までおびただしい数の句を作って。でもあのしんどくて楽しい期間はすごく好きでした。もう一回やりたかったな。

なんだかほんと、こんなんだったら俳句だけやってればとか今はまだちょっと思ってしまいます。
でも俳句甲子園をしていなかったら出逢ってなかった人たちもいるわけで。
まだ今はとにかく心がぐちゃぐちゃなので、よくわかんないことになってます。そんな状態で書くべきものじゃないかもしれないですけど。でもやっぱりやっててよかったかもしれないです。今はまだ本心では言えてないですけど。
ただ俳句甲子園に出逢えてよかったなとは全て終わってしまった今、ちゃんと思えています。


わたしが俳句甲子園に参加する意義

わたしは俳句甲子園も好きですが、俳句そのものも好きなので、ここで俳句をやめたりとかはないと思います。

もちろん俳句甲子園のために俳句をする人も(俳句の大会を青春のひとつの手段として捉える側)俳句の延長線として俳句をする人も両方いると思います。でも両方いたっていいと思います。
仮に後者であっても、高校生という時期に俳句甲子園ってやっぱり大きな目標ではある気がしていて。
どんな結果でも、仲間とともに頑張ってきたことってきっと価値が、意味があると私は思います。(だからと言って昨今の泣きばっかりに注目するのはいかがなものかと思いますが。泣いてんだからそっとしといてって思いますがね。もしわたしが当事者であるならば。そんな寄ってたかって泣き顔みたいですか?わざわざマイク振らないであげてくださいとも思いました。これもわたしが当事者なら、ね)
ここではわたしが俳句甲子園を通して得られたものについて書こうと思います。

①
まず俳句甲子園を通してたくさんの仲間や友達に恵まれました。
学校を隔てるからこそ取り巻く環境が違ったり、部活の方法が異なったり、そこも面白いと思いますし、他の部活動より、より世界が広がる気がして。関西ではオープン戦というものがありますが、そこではたいてい洛南灘大阪桐蔭という固定高校があって、顔見知りになるんですよね笑
他にもイベントが多いからこそ運営スタッフさんとも面識ができ、大会時緊張しないというメリットもあると個人的には思います笑
人の輪がこうやって増えていくのはすごくいいと思いますね。それだけ多くの世界に触れられると言うか、そこからまた新たに俳句の関係ができる可能性がある気がして。これはわたし自身が比較的社交的であることにも関係するかとは思いますが
②話をまとめる能力
わたしはずっと喋るのが苦手でした。もちろん社交的な性格は幼い頃からのものなので、人と話すのは好きですが、人に説明したりすることが苦手で。でもディベートの練習を重ねるうちにそれが得意になった気がします。これが備わったのは一生物の財産と言っても過言ではない気はします。
③最後に俳句との出逢いです
わたしは俳句自体も好きですが、俳句甲子園というきっかけがなかったら俳句をしていなかったと思います。俳句は一生ものだとわたしは思います。もし仮に一度やめても必ず帰るところは俳句だと思います。俳句と出逢えたことがわたしの最大の財産だと思います。

最後に

これから全国大会がはじまります。わたしは出られないけれど、でもみんなには頑張って欲しいと思います。
これはある選手の友達がわたしにかけてくれた言葉ですが、

「私が全国で頑張ることで雨華とか出れなかった人たちが報われるかってそんなわけないけど。
その人たちの分まで全力で戦ってきます。
全国に出るってそういうことだと思う。」

ということを言ってる友達がいて。
すごく全国へ出場するという覚悟や心構えがある人だなって思いました。
そしてわたしは何よりこの言葉にめちゃくちゃ救われました。
彼女含め、全ての全国出場の方々に頑張っていただきたいと思います。
そして今まで俳句甲子園で選手としていられて幸せでした。
ありがとうございました!


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