手段を目的にしない

TOEICが流行っている(ような気がする。)そして流行っているからビジネスとしても広がっているし、教える側としては需要が増えてありがたい。でも一方で、英語教育に携わる人間として、TOEICの勉強というのは英語習得のための手段ではあっても目的にはならない。というようなことをぼんやりと考える。

「テスト勉強」は「正解」があるので、ある意味、楽だ。語学学習において、テスト勉強をしながら知識を得るのは、もちろんとても有益で必要なことだと思う。でも、実際に英語を使おうとしてみると、言葉が出てこなかったり、出てきたとしても自分の言ったことが正解かどうかは微妙にわからない。文法的に正しいのか、ということから、言いたいことはちゃんと伝わったのか、失礼じゃなかったか。。。さらに、言った内容自体が良かったかどうかまで考えると、恥ずかしさとも後悔とも言えない何とも言えないモヤモヤとした気持ちになり、話し終わった後は心底ぐったりする。そこでもっと勉強しなきゃ、となるんだけど、実は勉強以上に大切なのは、その心底ぐったりする経験をし続けることだったりする。

言葉が出てこない自分、知ってる表現なのにパッと言えない、終わった後でなんであの時言えなかったんだ!となるあの感じ。ジョークのつもりの一言が正解かどうか、、、というか、会話の正解って何?みたいな哲学的な問いになって、もやもやぐるぐる結構しんどい時もある。

私自身、数々の恐ろしく痛々しい場面を経てきたと思うし、ある程度大人になってから英語を使えるようになった人にそういう経験をしていない人はまずいない。できない状態や間違えている自分、カッコ悪い自分と仲良くできないと本当に使える英語力に辿り着くことはない。テスト勉強でスコアが低い時のショックとは比べものにならない心労とお付き合いする必要がある。

ある意味、日本語でも、自分の発言が正解かどうかなんて常にわからないのだけど、私たちはそれには無自覚だったりする。

いずれにしても、下手でも、間違えてもいいから、実際に使って言語に巻き込まれて言語での経験値をアップさせることは大切で、恥をかくのにも慣れなきゃいけない。さらに言えば、その恥ずかしい経験は後々色んな意味で財産になる。

テストのスコアアップもいいけれど、下手でも間違えてもいいから、言葉と行動をつなげてこそその勉強が活きる。

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