うしなわれる春 1 如月悠帆 2022年4月7日 21:11 起床して、ふと春の匂いをかいだ気がして、思いついたことをつらつらとツイートしたのでまとめておく。エッセイの課題か何かのような文章だ。衣食住のなかからどれほど季節を排除しても、冷暖房ばかりはどうにもならない。すっかり春めいてきたと思った頃には立夏になっている。だから春の短さについて考えさせられることになる。人生も似たようなものだろう。この比喩的な人生の「春」の数には限りがある。— 如月悠帆 (@yuho_kisaragi) April 7, 2022 この「春」は前触れもなく「冬」になる。「夏」にもなるし「秋」にもなる。どの「季節」も似ているようでいてまったく違う。一過性で不可逆だ。同じ「季節」はやってこない。暮らしのなかの季節は時の流れの規則であるが、人生の「季節」は過ぎた時間の比喩である。— 如月悠帆 (@yuho_kisaragi) April 7, 2022 「(…)これについて何も言うことなどありはしない。避けるべきはこういうことで、何もないのに奇妙だと考えてはならないのだ。日記をつけるとすれば、危険はそれだと思う。つまりすべてを誇張し、鵜の目鷹の目で、絶えず真実をねじ曲げてしまうことだ」とサルトル『嘔吐』の冒頭にも書かれている。— 如月悠帆 (@yuho_kisaragi) April 7, 2022 人生の比喩的な「季節」とは、サルトルがいうところの「誇張」によって成立する。だから、記憶であれ記録であれ過去を振り返る行為には、相応の注意を払わなければならない、「私はいつも身構えていなければならない。さもないと、印象がまたもや指の間からこぼれ落ちてしまうだろう」。— 如月悠帆 (@yuho_kisaragi) April 7, 2022 引用部は J・P・サルトル『嘔吐』(鈴木道彦 訳、人文書院 、2010/7/20)を参照しました。— 如月悠帆 (@yuho_kisaragi) April 7, 2022 ダウンロード copy #春 1 この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか? サポート