菊泉(ひみ)

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 コンクリートに出来た水溜まりを雲が泳いでいる。幼い頃の僕は片足をそっとその上に乗せた。雲に乗って飛んでみたかった。  何も知らぬいたいけな子供は、無惨にも掻き消され散り散りになった雲に泣いた。ごめんなさい、ごめんなさい。僕があんまり重かったせいで、昨日隠れておやつを食べたせいで、君をこんな形にしてしまった!  泣いて泣いて、泣き疲れたころ、隣に立っていた母がそっと空を指さした。綿あめみたいな雲は、逃げるように風に流されていた。  この雲が流されてつぎはあの雲、あの雲が流され

    • カタツムリ

       カタツムリはアジサイの歯を食べることはできない。人間ですら殺すような毒の葉だ。なのにあの小さな殻を着た軟体動物はそれと知ってか知らずか、我が物顔で居座る。 「カタツムリも花の傍にいると心が安らぐのかなぁ。」  そんな筈はないと知っている筈なのに、彼女はそんな事を言いながら物憂げにため息をついた。  湿った季節につきものの低気圧は順調に彼女の思考能力を奪っているらしい。 「さっさとお風呂入っちゃってよ。下着洗濯したいから。」  私は怒る。ほら、とせっつきながら肩を揺さぶっても

      • 詩人

        詩人。彼は生来の詩人であった。彼が口にする言葉の一つ一つは常に変化していくリズムを自ずから持ち、只「ああ。」と発する声ですらも詩の一行となり得た。それは彼がそう溜息を吐く時、彼が心の底から「ああ。」と思っているためであった。彼は真の人であった。全く嘘というものをつかず、たとえ都合が悪くなった時でも、ただ黙するのみであった。常に、誰に対しても、何よりも言葉に対して正直であった。それ故に彼の言葉には一切無駄な言葉がないのであった。私は彼の言葉を聞く時、常に幸福と共にあった。常に彼

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      • 菊泉小説
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