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「悲しみの果てに何があるかなんて」

12月、澄み切った空気を感じながら神田川沿いをいつものように散歩する。僕が散歩をするときはいつも音楽を聴きながら。ほとんどシャッフルで音楽を聴いているのだが、急に「エレファントカシマシの悲しみの果て」が耳に入ってきた。エレカシの悲しみの果てなんて、何百回何千回聴いている曲なのに今回はなぜか聴こえ方が全然違った。

悲しみの果てに 何があるかなんて
俺は知らない 見たこともない

この歌詞から始まるんだけど、いつもとは全然聴こえ方が違った。というか、悲しみの果てに何があるかなんて俺は知らないという歌詞にそれまでは俺も知らんわと共感しながら聴いていたのだが、今回は聴いた瞬間に悲しみの果てに何があるか、俺は気づいたかもしれないと思ったのだ。

それが、なんでかっていうと今日、ある人に僕のピンネタをすごく褒めてもらった。どこが良いかの解説を聞いているうちに、自分のネタはこういうことを面白がってるんだろうなというのにようやく少しだけど気づけたんだ。

僕のピンネタはすべて自分が被害者になるように作っている。というか、それはもう自然にそうなっていた。僕は学生時代からいじられまくってたし、悪口も結構言われた。その被害者意識からか、ネタ中に自分が架空の人を悪く言って笑いを取る手法は自然とやってこなかった。

なんで学生時代、そんなにいじられたのだろうと考えるとやっぱり、僕がいじられて被害者になっている様が面白かったからあんなにずっといじられたに違いない。あのときはすごい悲しい気持ちになって、公園の土をスニーカーで削れるだけ削った日もあったけれど、今思えばそこに僕が笑いを取れる方法が隠されていたのか!と今さら発見した。というか、それは学生時代から薄々感じていたのだけれど、寒空の神田川沿いを歩きながら、シャッフルで流れてきた悲しみの果てを聴いた瞬間に確信した。

悲しいの果てには笑いがある。

今月のタイタンライブパンドラのネタもそういうネタになっている。是非とも見てほしい。そして、笑ってほしい。この前、地元に帰ったときに同級生の女の子に久しぶりに会った。第一声が「浮浪者やん」

僕の悲しい顔見て笑っていた。僕はこれで良いんだ。悲しみの果ては素晴らしい日々を送っていこうぜ

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