ラデュリ『モンタイユー』要約


はじめに


今回発表するのはエマニュエル・ル・ロワ・ラデュリの『モンタイユー』です。まず、著者と本書の位置付け、特徴について見ていきます。
著者はアナール学派の1人で、第三世代に属します。『モンタイユー』以前には、『ランドックの農民』や『気候の歴史』『新しい歴史』を著しており、数量を用いた係の歴史学を実践していましたが、『モンタイユー』以後は『ロマンの祝肉祭』や『ジャスミンの魔女』の一連の歴史人類学と称される研究を発表しています。つまり、この研究は量的な研究から質的な研究の転換点となったと言えるでしょう。歴史人類学とは歴史学において、人類学的なアプローチを取りますが、明確な定義はありません。歴史人類学をもっと明確にするために本書の特徴について見ていきます。
本研究が対象とするのは、1294年から1324年のフランス南部、ピレネー山脈に位置するモンタイユーという村です。
本書を成立させている史料はジャック・フルニエの『異端審問記録』です。1300年頃のフランス南部ではカタリ派が猛威を振るっており、モンタイユーもカタリ派の影響下にありました。この史料はフルニエが異端を炙り出すために、村人へ微に入り細を穿つ尋問を行った記録です。従来の研究は、この史料をカタリ派の研究活用していたのに対し、著者は『異端審問』という史料を、その性格に逆らって付随的な形で残されていた日常生活の細部に着目していいます。この研究が対象としているのは、カタリ派とその信仰体系というより 「ジャック・フルニエの審理にかかったモンタイユーの、あるがままの姿であると同時に認識自覚された姿」です。つまり、この村の世界観を描出することです。これは村人の生活にとどまりません。ある歴史家はこの歴史を『深部において無意識のうちの行われる選択、行動のしかたや社会の仕組みのうちに働いている価値体系や世界像を表現するような選択としての歴史 』としています。つまり、心性という問題にまで踏み込んでいるんですね。本書の第二部がそれらの内容を具体的に示しています。この問題を明らかにするためには歴史学以外の学問も動員する必要があります。本書の特徴として、人類学あるいは社会学、精神分析の理論が使われていることが挙げられます。特に関心が高かったのは人類学でレッドフィールドのシカゴ学派から研究の着想を得たそうです。人類学に接近した歴史学こそが本書の特徴でしょう。
以上、本書成立の根幹となる特徴を見てきました。ここで本書が「歴史人類学」と称される理由がわかったと思います。本研究は、「人類学のフィールドワーク」のように、村人一人一人からの証言を集めることによって、モンタイユーの民族誌を、厚い記述を構成するのです。本発表では、本書の内容を変えず再編成し、村人の語りを中心に内容をまとめています。では本書の内容に入っていきます。

一部


一章 家の世界


まず初めに、モンタイユーの農民の中核となる家族概念、ドムスについて見ていきます。ドムスとは、現代でいう家と家族の両方の意味を持つ概念で、住居としての家であると同時に、その下に住む人々のことを指します。モンタイユーの人々はドムスの永続と繁栄を志向します。それゆえに彼らに大きな影響を与えるものでした。ここでは住居財産、宗教、系譜関系という観点から、ドムスの果たした役割について見ていきます。
一節
 住居としたみたドムスは、法的人格を持つ財産的なものでした。それは人格化された死せる家長が、土地所有権や森林用益権、教区の山地の共同放牧権などの諸権利を保持します。家に人格化された家長がいるとはどういうことでしょうか。モンタイユーでは、家ごとに「つき」があって、それを守るために死んだ家長の爪と髪を家に安置しているということです。そうすることで「死者の持つ魔力」が家に浸透し、その力を子孫に支えることができると考えられました。ある人は「奥さん、死骸の髪を一束、それに手足の爪の先を取っておくと、死骸も家の星やつきを持っていかないといいます。」(本書・上54頁)つまり死者が運として、家の永続性を担保します。
 宗教については、この村はカタリ派の強い影響を受けていました。ドムスはこのカタリ派と結びつき、その拡大の土台となったのです。すなわちカタリ派の信仰は、教会ではなく家で行われたので、その入信は家ごとに進行しました (本書・上48頁)(信仰は個人の問題でなく、家の問題)。カタリ派は家の中で、温存されたのです。この様にして温存された異端は、家族を超えた社会的結合を通してそれぞれの家に浸透していきました。
 系譜関係という点から見たドムスの役割は、親戚関係や婚姻関係、隣人関係、家族関係が交錯する結び目になっていました。ドムスが、関係の基本単位であったことは、家族での連帯が強かったことを示しています。例としては、ギョーム・モールによる復讐事件があります。ギョーム・モールがクレルグ一家を全滅させようと考えました 。これに対し、クレルグ家は、一家総出でギョーム。モールを追い詰めようとしたのです。これは相手の家族の結束を知ってのことでした 。クレルグは、兄の力を借り、牢獄にいるギョームの母親の舌を切らせ、家族総出でギョームを捕まえようとしました。この様にしてモンタイユーでは家族の連帯が見られました。

二章 羊飼いの世界

先ほどは、古典的な定着農民に限って話を進めてきましたが、彼らがモンタイユーの唯一の実態というわけではありません。ここでは、農業も遊牧も行い、家も土地も持たないが、独自の観念を持つ巡回の羊飼いについて見ていきます。
 村の家に対して、羊飼いの社会関係において重要とされたものは「小屋」です。この小屋では6人から10人ほどの羊飼いが宿泊し、彼らは一シーズンあるいは短期間滞在しました。彼らはそこでチーズを作ったり、最近モンタイユーで起きたことを語り合ったそうです。つまり小屋は、乳製品製造所であると同時に、旅の交差点であり、情報の交換所でした。
 この小屋制度の根底にあるのは、移動放牧でした。ピレネーのアリエージェ地方の移動放牧は、ある特徴を持っていました。つまり、それが山地から平野へ、高地から低地へ、夏期放牧から、冬期放牧へと向かっていく大規模で、広範な移動を伴うものであったということです。
 経済という点で見れば、彼らは、基本的に雇人か賃金労働で 、各地を転々としていました。定住性がないということです。羊飼いはこれを不安定と捉えたわけではなく、むしろ平気でやってのけました。またこの給料のはほとんど現物 でした。雇人は一種の万屋でその業務は特に規定されておらず、パン屋や使者などの雑多な仕事を押し付けれられていました。
 次に作者はピエール・モリという人物を中心に、これらの羊飼いの社会的地位と気質(マンタリテ)を明らかにします。
 社会的地位については、彼らは社会の最下層にいました。つまり、職業独特の不便や大きな危険がついて回ります。羊飼いの過酷極まる生活は史料中に度々言及されています 。しかし、彼らを脅かす貧困は清貧という点で理想でもありました。元々羊飼いは定住しないため財を蓄積する手段を持ちません。そのためもあって、羊飼いは貨幣に淡白でした 。貧乏であるからといって、ピエール・モリがその生活に満足していないというわけではなく、むしろその逆。面白く、充実している上、刺激的なものでした。彼は社交人であり、悠々と祭や友人たちとの充実した食事を楽しみ、ときには故郷に戻り、友人や愛人に会います。
 羊飼いにとって財よりも重要なものは、家族でした。ピエール・モリの言葉は家族へ対する敬愛を表していると言えるでしょう。さらに、この愛は拡張され、血のつながらない男に対する愛情としても表れます 。この背景にあるのはオクシタニーの特異な文化である「義兄弟」 、と「あい親」 という擬似親族関係でした。
 次に作者が明らかにするのはピエール・モリの運命観です。ピエール・モリはこう言っています。「自分の運命を辿るほかない。もし臨終の時に異端になることができればそうなるだろうし、さもなければわたしに約束された道をだどることになるだろう」(本書、上、199頁)著者は、この運命観 を加護を祈るフランスの一般的ないものとは違い運命に生きるという点で特異なものとしています。
では二部に入ります。

二部


 次に、作者が明らかにしたのはモンタイユーに通底する横断的な価値体系です。身振りや愛情、生死観などがそれに相当します。

一章 身振り・手振り


 一節 礼儀
 モンタイユーの人々は、友人や普通の知り合いに会って挨拶する時に、頭巾を持ち上げて起立しました。例えば、ピーエル・モリは通りがかりの異端者たちに挨拶するために立ち上がり、彼らにパンとミルクを提供したそうです。しかしモンタイユーでは今の我々のいう礼儀作法というほどの概念は持ち合わせていませんでした。礼儀については、手を取ることが習慣化されていたようです 。
 二節 虱取りと衛生
 衛生について見るとき、それは社交という性格が現れます。虱取りは好意の印なので、皆が熱中します 。虱取りは家族と愛情を深める機会であり、それを表明するものでもあって、その範囲は血縁関係、不倫関係にまで及びました。

二章 性・結婚・愛


 一節 内縁
 次に取り上げたいのは、これらの行動の根底にある情念です。注目すべきことは村の性関係が比較的自由で、内縁関係が公然と結ばれ、公然と続けられましたことです。不倫状態にある内縁関係であっても同様で、アラザイス・ギャベールは述べています「わたくしはアルノーに深い愛情を抱いていて、道ならぬ仲になっていました。」このように内縁関係は道徳上の問題があったことを認識しつつも恥ずべきものではなかったのです。(避妊について) けれども、結婚こそ男女関係の本舞台と考えている人もいました。
 二節 結婚
 結婚は当人だけ問題ではく、ドムスの問題でした、。つまり一夫一妻こそ家の維持と繁栄の要なのです。従って結婚は、当人同士の合意だけにとどまらず仲介者として家族、親戚、司祭らが立ち合います。両家、あるいはこの結婚から誕生する一家族を固く結ぶためです。
 ここまで結婚が問題となるのはドムスの繁栄に関わっているのもありますが、高額の投資 を伴うからです。このリターンは老後の介護や稼ぎ手となる子供を育てることであったと考えられました 。つまり結婚は一時的な困窮を伴うものの両家の繁栄をもたらすもの でした。ドムスを志向するということは、恋愛結婚は不可能だったのでしょうか。著者はブルデューを引用し 、その意見を否定します。「つまり、自由選択という一見危なっかしい勝手気儘な方法で、あらかじめ社会的に決定されている伴侶と結ばれるのである。」
 三節 結婚生活
 結婚生活について見れば、まず夫優位にあり、妻は夫に殴られていました 。農村文明において女性軽視 が顕著であったのです 。しかし、「母権制」 と呼ばれる制度によって、女性は一時的にドムスの主導権を握ることがありました。また、女性が老いるということは立派な働き手となる息子の母親となることであって、家系からの敬意を受けました。
 四節 子供
 内縁、結婚関係においても、子供に対する愛情がありました。著者はアリエス を批判しつつ、子供に対する情愛を農村文化に根ざした最も「基本的」なものであるとしています。アラザイス・アゼマは以下のように述べています。「ギョーム・ブネの息子のレモン・ブネが死んで二週間たった頃、ギョーム・ブネの家に参ったのでありますが、彼は泣いておりました。わたくしを見て彼は申しました。アラザイス、倅のレモンが死んで、私は今まで持ったものを全部無くしたも同然だ。私に代わって働いてくれるものは誰もいなくなった。」モンタイユーにおいて子供とは単なる労働力以上の存在でした。
 

三章 社会的結合


 一節 夜語り
 社会的結合において、夜語りが村では重要な位置を占めます。夜語りとは、食後に火のそばで農民が集まり、人々が話す機会です。そこでは、オーティエ兄弟による雄弁なカタリ派の説教がなされ、それが口伝えで村に浸透します。ほとんどが文盲の農民において、教説を身につけ、本を読むことのできるオーティエ兄弟は、絶大な影響を持ちました。
 二節 女性社交
 モンタイユーには階級を超えた女性同士の交際がありました。つまりおしゃべりをしていたのです。例えばチーズの商売について、あるいは異端について、主に家で、いつでも、毎日何度も反復されます 。この交友は無駄話というわけでなく、著者は「交際を通じて情報サーヴィスの主要部分を担当し」たとしています。本質的な事実を構成するのは女性側であるということです。
 三節 男性社交
 一方、男性の社交関係はもっと包括的政治的な性格を帯びており、農作業や村の広場、教会で、繰り広げられました。彼らが何を議論していたかというと、制度 やカタリ派思想についてです。家の外で、家のことを持ち出さないという交流の特徴は、女性の社交とは対照的です。
 

四章 思考


 一節 時間観念
 日常の時間は今と比べて漠然としていた 。教会の鐘は大した効力を持たず、仕事と休憩は区別されていないようで、始めたばかりの仕事でもすぐに放り出しました 。周期的時間について見れば、司祭が支配しており、彼だけが把握していました。このように通時的な時間観念に希薄なモンタイユーでは歴史が存在せず、基本的には過去を「16年前」や「25年前」と表現しています。
 二節 自然
 モンタイユーの小宇宙を支配するのは自然です。彼らの自然観で特徴的なのはピエール・モリで見たような運命観に、カタリ派の輪廻転生の教説が結びついたことにあります。自由意志を認めず、全ての行為は霊魂に帰結する と考えられました。天体の運行も彼らの運命間と深く関わっており、結婚の日や吉凶の占いに使われました。

五章 宗教


 霊魂に全てが還元されるとは、つまり霊魂の救済が彼らにとって大きな問題であったことを示します。モンタイユーが救済に選んだのはカタリ派 でした 。カタリ派教説はまず初めに神話でした。この神話は、カタリ派の輪廻転生の教説を強調するもので、ピエール・モリは何度も言及しています。入信の儀式は救慰礼でしたこれは、死の直前に受け、耐忍と呼ばれる絶食自殺を図り死にます。日常的には至善礼で、これは帰依者が善信者を礼拝し、善信者が帰依者に祝福を授ける儀式です。

六章 倫理


 死が一切を払拭するとは、いくらでも罪を犯してもほぼ問題がない という事です。すなわち、罪の観念で個々人の行動が決定されわけではないという事です。この地域では罪の意識は個人的感覚というよりは、何が社会的に恥辱とされるかの社会的規範に依存していました。つまり、この村で問題となるのは恥です。ピレネーで支配的だった価値観に、女性の名誉を重視するというものがあります。また恥となるのは黄十字や貧困でした。
 貧困。これはモンタイユーを取り囲む問題でした。貧困は恥であると同時に、「清貧」として尊ばれたのです。貧困で救われるなら、金銭をむしり取る教会に対して憎悪を抱くのは当然でした 。貧困はただ尊ばれるのではなく、救済に関する限り、つまりカタリ派として生きる事でした。貧困だけでなく喜捨と労働も魂の救済に向かって実践されました。

七章 悪魔・亡霊・冥界


 悪魔について見ると、それはどこにでもいると捉えられていました。カタリ派に触れたモンタイユーにとって、人生は死に至る病でしかないからです。現世が悪魔に満ちていても人間と直接接触することはほとんどなかったようです。
死後の世界には前世同様に社会階級、交流関係 、宗教的差異 が認められます。生後の生活とは、根を下ろすドムスや快楽のための肉体を持たないため、特に楽しみがなく 教会を彷徨っています。彷徨った先には「安息」が待っており、この安息を早めるために、生前の家の家族が宗教実践をおこなっています。死後も家との結びつきがあるのですね。
 

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