証人と生政治―「レーヴィのパラドックス」をめぐって


おそらく、アガンベン『アウシュビッツの残りもの』に関するレポートのはず。あまりオリジナリティはない。
回教徒とは、アウシュビッツにおける死にかけの収容者であり、言語を話すこともできず、声を持たない、いわば人間としての尊厳のない人間のことである。つまり、ここでい回教徒とは、人間であった人間ならざる者のことを指している。
プリモ・レーヴィは、アウシュビッツで回教徒を目の当たりにした、イタリア人化学者である。彼の回顧録は、有名だがその中で「回教徒こそが証言者である」というのである。声を持たない回教徒は如何にして真の証言者といえるのか、さらになぜレーヴィは証言者ではないのか?
アガンベンは、従来の倫理を全て駆逐しながら、この命題を紐解いていく。

はじめに


アガンベン『アウシュビッツの残りもの』は、「レーヴィのパラドックス」を極端な形で示す証言の引用で終わる。その証言とは、かつて回教徒の状態にあった人々が今その状態について語るというものであった。その証言は、アガンベンによれば、「わたしは回教徒だった」という表現がレーヴィのパラドックスに反していないどころか「正確に立証している」という。 アガンベンがレーヴィのパラドックにこだわり続けているのはどのような理由によってなのであり、レーヴィのパラドックスをこのように立証することは、アガンベンの企画において何を意味するのか。本稿はこのような問題提起のもと、「レーヴィのパラドックス」をめぐるアガンベンの提起する倫理とその背景にある問題意識を明らかにしようというものである。

1.レーヴィのパラドックス


まずレーヴィのパラドックスについて見てみる。レーヴィのパラドックスとは、アガンベンの用語であり、プリモ・レーヴィの「回教徒こそが完全な証人である」というテーゼである。そこには二つの矛盾する命題が含まれているという。一つ目は「回教徒は、非―人間、決して証言することのできない者である」。二つ目は、「証言することのできない者が、真の証人、絶対的な証人である」。 言葉を持つが自分の身に関わることとしては語るべきものはないも持っていない生き残り証人と、言葉をもたないが「そこに触れた」ために語るべき物を持つ回教徒の二つの主体がどのような関係にあるのかという問題をレーヴィのパラドックスは提起している。そしてそこにおいては、どちらが証言の主体なのかという問題は、必ずしも重要な問題ではない。というのも、「そこでは、言葉を持たない者が話す者に話せているのであり、話すものはその自分の言葉そのものの中に話すことの不可能性を持ち込んでくるのである。こうして言葉を持たない者と話す者、非―人間と人間は証言において、無差別の地帯に入り込む」 つまり、証言の主体は存在しないということのである。人間は、非人間に声を貸し与えるが、人間は非人間によって語らされている。人間と非人間の共犯関係、主体化と脱主体化の二重の運動こそ証言に他ならないとアガンベンは指摘する。そしてこれこそがレーヴィのパラドックスが指し示すことである。
レーヴィが「完全な証人」と呼ぶ回教徒は、生きているとも死んでいるとも言われない。むしろ人間と非人間のあいだの閾を示しているとアガンベンは指摘する。レーヴィによれば「神の火花が自分の中で消えてしまい、無言のまま行進し、働く非―人間たち」。 つまり、人間が人間をやめる地点が存在するという。よって、回教徒とは「人間性を完全に破壊されたもののこと」 であり、このことは「人間は人間の後も生き残ることのできる者である」 ということを示している。戦後、回教徒についての写真や映像があまりにも少なく、回教徒をみることの不可能性が生じたのは、回教徒を見ようとするものが、回教徒のうちに自らも人間性が完全に破壊される可能性をみって取ったからではないだろうか」 では、アガンベンはアウシュビッツにおいて人間性が破壊されるという指摘を通してどのような問題を提起したかったのであろうか。アガンベンによれば、この人間性の破壊が生政治の特徴であるという。

2.生権力と回教徒


人間でなくなった後も生き続けるということは政治的な意味を持っているという。ミシェル・フーコーは、19世紀に生殺与奪の権利、つまり臣下を殺すことができる(「死なすか。それとも生きるに任せるか」)という形で実行される主権の権利から新しい権力のタイプが生まれたことを指摘している。そして新しい権力とは生命に関する権力、すなわち「生き「させる」、そして死ぬに「任せる」権力」 である。この権力は、身体を対象とした規律的権力テクノロジーと別個の権力テクノロジー、つまり生政治の出現によって可能になる。そしてこれが適用されるものは、人間の生命、統計的な人口、人間―種であり、社会保障、公衆衛生、教育などを通じて人口、病気、出生率、死亡率が調整される。そしてそこに人種主義が権力のメカニズムが機能できるように介入してくる。フーコーによると「人間種の生物学的連続体において、諸々の人種が現われ、人種間の区別やヒエラルキーが設けられ、ある人種は善いと見なされ、ある人種が反対に劣るとされるなどして、権力の引き受けた生物学的な領域が断片化されていくことになるでしょう」。 生物学的な領域の断片化すなわちアーリア人と非アーリア人の区別、そして非アーリア人のうちで混血ユダヤ人と純潔ユダヤ人の区別がなされる。非アーリア人はユダヤ人に移行し、ユダヤ人は強制移住者に移行し、強制移住者は囚人に移行し、囚人は人種を超えて回教徒に移行する。このようにアウシュビッツは、生物学的連続体を限界まで分節化するという生政治の実態を暴くと共に、その極である回教徒を提示する。
さらにアガンベンは、回教徒への考察を通して「死なせ、生きるがままにしておく」という主権的権力と、「生かし、そして死ぬがままにしておく」という生権力の二つの定式に第三の定式があることを指摘する。それは、「死なせるでも生かすのでもなくて、生き残らせる」 というものである。回教徒はこの命題を最もクリアな形で体現している。というのも先に述べたように回教徒は生きているのでも死んでいるのでもなく、人間が人間であることをやめ、剥き出しの生を生きているからである。そしてこれが20世紀の生政治の最も特徴的な性格を表しているとアガンベンは指摘する。「生権力の最大の野心は、人間の身体の内に、生物学的な生を生きている存在と言葉を話す存在、生命(ゾーエー)と生活(ビオス)、非―人間と人間の絶対的分離を生産することである。つまりは、生き残ることを生産することである」。 ここで人間が主体化と脱主体化の二重の運動であったことを思い起こしてほしい。「人間とは中心にある閾であり、その閾を人間的なものの流れと非人間的なものの流れ、主体化の流れと脱主体化の流れ、生物学的な生を生きている存在が言葉を話す存在になる流れと言葉を話す存在が生物学的な生を生きている存在になる流れがたえず通過する」。 ならば、生き残ることを生産するということは、主体化の流れと脱主体化の流れを完全に止めてしまうということ(「絶対的分離」)を指し示しているといえる。つまり人間がつねに、主体化することなく非人間に領域に押し留められている。回教徒とは主体化の流れが完全に失われてしまった存在、証言も恥も自らのこととして死ぬこともできない存在であるといえる。アウシュビッツは、剥き出しの生を生きる存在、生き残りを生み出す実験場であったのだと、アガンベンは指摘する」。 しかし、アガンベンは証言こそがこうした生を分離する生政治を反駁すると言っている。

3.語ることの可能性と不可能性


レーヴィのパラドックスは、この生政治の実態においてなにを意味するか。アガンベンが指摘したように、生き残りを生むということは、証言不可能な剥き出しの生への移行であった。生政治が生み出した生き残りについて証言することはどういうことを意味するのか。まず証言とは、主体化と脱主体化の分水嶺に位置するものであり、人間と非―人間を指し示していたという」 つまり、証言は主体化と脱主体化の運動であり、その閾で生起するという。ここで証言という行為について、アガンベンの説明を見てみよう。ラテン語で証人という意味も持つアウクトル(auctor)は、不完全な行為の補完という観念を意味していた。また証人も意味する。したがって「auctorは、その者の証言が、なにか、そのものよりも先にあって、その実在と効力が認可もしくは確証されなければならないもの——事実であれ事物であれ言葉であれ——をつねに前提としているという意味での証人を指している」。 証言とは、何か証言されるものが前提とされていて、その前提を補完する行為なのである。
このことを踏まえると、証言はアウクトルの行為であって、そこには確認されるべき、補完されるべきが先に存在するといえよう。アウクトルの行為が証言能力を欠いているものに、証言能力を付与し、その証言を完成させる。よって証言には、証言する可能性と不可能性の両方が必要なのである。「生き残って証言する者と回教徒は分離不可能であり、両者の差異をともなった統合のみが証言を構成するのである」。 証人は、回教徒に言葉を与え、脱主体化を証言するのである。その意味で、レーヴィのパラドックスは解されるとアガンベンは主張する。つまり、証言は、語ることの不可能性が存在するときにのみしかありえず、その意味では回教徒は証言を基礎付けているという意味で回教徒こそが完全な証人である。人間が人間の後も生き残り、両者の間に隔たりがあるから、語ることの可能性と不可能性があるから、証人は人間の後に残ることができるとアガンベンは主張する。
非―人間が人間としてあるいは人間が非―人間として生き残ることができるからこそ、つまり人間が人間の後も生き残ることができるからこそ、証言は回教徒の存在を補完することができる。生権力は、回教徒から証言の可能性を徹底的に奪い尽くし、証言不可能な状態にまで追い込んだ。証言の不可能さにのみ証言は成り立つ。だからこそ、その証言の不可能性を証言の可能性でもって補完し、回教徒を主体として取り戻すことが、アウシュビッツ以後の倫理であるとアガンベンは主張したかったのではないだろうか。

4.おわりに


生政治は、人間を徹底的に不可能な存在、回教徒、生起できない存在、生き残りの生産である。そうした問題は既存の政治、法、倫理では対応できず、問題にすらならない。しかし、唯一アウシュビッツに関して語ることができるとすれば、証言不可能な回教徒について証言するである。このままではレーヴィのパラドックは解決されてはいない。ところで証言とは、「アウトクル」の行為、不完全な行為の補完を意味している。「回教徒においては、証言することの不可能性は、もはや単なる欠如ではなく、現実となっており、そのようなものとして現存している」。 証言不可能な、回教徒の声を与え、脱主体化を語り、そのことによって主体が生起する。これこそ、アガンベンの剥き出しの生を生産する生政治へ反駁であった。主体化と脱主体化の流れを断ち切ることが生政治の目的なら、証言によって主体化と脱主体化の流れという人間的なものを取り戻さなければならない。そしてレーヴィのパラドックスは、そのような「脱主体化」を語る自身のことを指しており、レーヴィはアガンベンのいう倫理的主体である。 だからこそ、本書の最後において、回教徒であった人々が当時の状況を語るという証言の引用に終わっていると考える。それは自分自身の証言不可能な回教徒状態を証言するという意味でアウトクルな行為であり、レーヴィのパラドックスを極端な形で示していることからも、究極な倫理的な実践と言えるからだ。そこでは、声をもたなかったかつての回教徒が声を取り戻し回教徒であった頃を証言することによって、回教徒の存在が取り戻ってくる。証言を奪われたものに対して証言を与えるという点で証言は、まさに生政治が生み出そうとしたものに対する反撃である。アガンベンが不可能なものについて可能性が補完する、逆説的ともいえる証言にアウシュビッツ以後の、生政治時代の倫理のを求めていると考えるからである。

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