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バーチャル世界で学ぶ文化人類学の挑戦とバリアフリー思考についての雑記

バーチャル文化人類学への挑戦

ここ数日物理世界で生きる事とバーチャル世界で生きることについて、
色々な人の体験談を聞かせてもらってめっちゃ勉強になっています!
バーチャル世界で体験する青春、成り上がり、恋愛、そして喪失
確かにどの事例もとても新鮮で特殊に聞こえるけど、よく考えると物理世界で同じ現象見たなと思う事もいくつかある。
だからといって、バーチャル世界での出来事を矮小化したいのではなくて
むしろバーチャル世界で特殊に感じる出来事を見つめることで
私達がいままであたりまえに積み重ねてきた物理生活での出来事が
全然当たり前なんかじゃなく凄い複雑なものだったのだと気づく機会にしたい。
わっちのメタバース、バーチャル世界に対しての現状の発信ポリシーは基本これです。
まだまだこの世界に来たばかりの由宇霧が「メタバースとはこうである」と一部を切り取って論じる気はなくて、逆に来たばかりだからこそ気づくことができるメタバースと対比した時に浮かびあがる慣れ親しんだ物理世界の特殊性やVTuber文化の特殊性を考えていきたい。
バーチャル世界でフィールドワークする文化人類学を実践してみたいのです。
この考察がめぐりめぐってメタバースで生き続けてきた人の役にも立てたらみんなハッピーだよね。
(バーチャル世界とメタバースで表記が揺れているのは、まだ自分自身この世界をなんと呼べば良いのか悩んで揺れている現状を表現しています)

実は物理世界も相当特殊説

バーチャル世界で生きはじめた私達は「仮想の世界」を生きる新人類だと思われがち。
でも実際は物理世界もかなり仮想の上に成り立っているんじゃないかと感じる。
やっていいこと、悪い事、お金の価値、愛情表現、社会的立場etc…
どれも、そこのコミュニティに属している人たちの共通認識によって成り立っている。
その共通認識って、コミュニティが変われば無効になるのはもちろん、コミュニティ内で統一されているように見えて実はかなり人によって差があって、私たちはその差をコミュニケーションによってなんとか埋めながら、時にすれ違い傷つけ合いながら生きている。
でも物理世界とバーチャル世界がまったく同じかというと、確かにそうではなくて、たったの数分で遠く離れたところに住んでいる人に会えたり、身体的な外傷を避けられたり、外見をまるごと変えたりすることができる。
物理世界では思い通りにいかないことも、バーチャル世界では叶う事が多い。
だけどそれゆえに。
無限の可能性を持っている(ように感じる)がゆえに、できない壁が立ちはだかった時のショックは大きいのかもしれないなとも思った。

VTuberにも起こる事

VTuber活動なんかはそれの良い例で
インターネットって技術的にはほぼ誰とでも繋がる事ができるから
仮に日本に限定したとして1億2千万人と繋がる可能性があるように感じてしまう。

さすがにそれはないとしても、売れているVTuberの配信や登録者数をイメージして数十万人と繋がることができる可能性を感じてしまう。
だけど実際はそうではなくて、知られるためにはYouTubeを戦略的に運用したり、数年の下積みであったり、運であったりと沢山の要因が絡み合って数十万人に知られるという事が起きているのです。
さらにいうと、登録者数が多い方が良いなんて価値観も人によって違うんです。
由宇霧は生業としてVTuberを考える時、数字は必須ではないと思っているタイプ。

あると思うから辛くなる

話を戻すと、バーチャルでも物理世界でも平等にあると思っているものが手に入らない時、人は大きなショックを受けるのではないでしょうか。
物理世界で言うと、わっちは家族仲があまり良い方ではなかったんだけど
そのことに凄いコンプレックスや喪失感を抱いた時期がありました。
だけど、じゃぁ家族仲が良いってなんなのかとか
仲良いっていうのは絶対的に良い事なのかとかって
実は結構仮想のもので
それにも関わらず「家族というのは仲が良いのがデフォルト」のように自分が思い込んでいたから、それを平等に与えられなかったことに対して悲しみを感じていたんですよね。
ここ最近は自分も大人になったので家族とそれなりに付き合えるようになってきたし、なにより「良い・悪い」とか考えずに
「これがわっちの家族」とシンプルに受け入れるだけになったのでかなり生きるのが楽です。
人がそれぞれ違うのであれば、平等なんてものはほぼ無いはず。
でも平等なんてないから、持つことを諦めろっていうのではあまりにも残酷だから、その不平等を少しでも埋めるために法律や福祉やボランティアやサービス業がある。
で、この法律も福祉もボランティアもサービスも、コミュニティの中にいる人の多くが「あると信じている」から維持できている仮想のものだと思うんです。
バーチャル空間で、そこにステージや椅子があると「信じている」から生きることができるのと構造は同じなんじゃないかな。

無限の可能性を持っている(ように感じる)がゆえに、できない壁が立ちはだかった時のショックが大きくなる要因として思い当たるものがもう一つある。

できない理由がなくなっていく

これに関しては以前記事で似た事を書いているので簡単に書きますが
物理世界にだけ生きていると
「田舎に住んでいるから遊べない」「顔が悪いから恋人ができない」
「テレビに出られないから人気者になれない」
というように、できない理由を決めつけやすいです。
バーチャル世界で今まで抱えていた具体的な課題をクリアしても、まだ求めるものが得られなかったら「悪いのは自分だった」とわかってしまいさらに落ち込む可能性があります。
(ここで言う「悪い」っていうのも仮想なんだけどね)
これはバーチャルに限らず物理世界でもあります。
「志望校に合格したら青春できるに違いない」みたいな。
結局は粛々と日々が続いていくだけなんですけど。

できない理由を勝手に決めて、その世界の中で生きてる方が(これも仮想の世界!)楽なんですよって話は「嫌われる勇気」にも出てきました。
もし本当に解決したいなら、嫌われることをおそれず「やっていく」しかないんです。
その辺はPodcastで語ったので気になる人は作業のお供に聴いてね。

そこで役に立つバリアフリー思考

別に問題を全部真正面から解決する必要はなくて、避けられる壁は避けちゃえば良くね?補助するものがあれば良くね?
という由宇霧が独自に研究している思考法です。
何者かになりたい人が全員何者かになれたら苦労ないし
恋人が欲しい人全員がカップルになれたら世話はない。
何者にもなれないという壁の前でなぜ何者かになりたいのか、一度立ち止まって考えてみる。
実はその悩みの根本にあるのは「家族に認めてもらいたい」とか「友達に一目置かれたい」みたいな人間関係の悩みだったりする。
さらにいうと、何者かになったからといって恋人ができたからといって家族も友人もそんなに態度は変わらないか、今度は利用しようとしてくるというあまり嬉しくない方向に態度が変わったりします。
この場合に必要なのは、何者かになる事ではなくて
過去の心の傷のケアだったり、何者でなくても遊んでくれる友達だったりします。
こうやって直接悩みを解決するのではなく、悩みの根源を探してその根源を解決したり、解決できなくても自分の感情をいなしながら生きていく方法を探す考え方を勝手に「バリアフリー思考」と呼んでいます。

わっちの生き方で言うと、細かい作業ができなかったり週5日決まった時間の稼働が困難だったので、
自分で仕事を創造できる今の働き方を選んだというのはバリアフリー思考からみちびかれたものです。

まだざっくりとしているので来年はこの思考法についても
もうちょっと体系化できたらいいなぁ~。

最後に、由宇霧の学びを支えてくれている本のご紹介


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