いま、自分の進む道
少し、何かかみ合っていない。いま、誰のために何をしようとしているのか。いま一つ、情熱と形がしっくりきていない。一瞬一瞬、現れる現象と感情と心の揺らぎと。行ったり来たり。
一喜一憂。という言葉の通り、一瞬一瞬で上がったり、下がったり。ちょっと待てよ。私。あの猛進していた時、そんな思いがあっただろうか。あのやり遂げようと頭から湯気が出ていた時、こんな「あれ?」みたいな思いあっただろうか。
その時との比較。ちょっと、違う、今。なんでだろう。進む力、推進力、自分でも不思議なくらいまっすぐに前しか見えないエネルギーに包まれていた、あの時。いまは、どうか。行っては、ちょっと休憩。そして自分のお尻を叩く。本気で楽しいのか。ちょっと待て。少し考える。きっと楽しい。そう思っている。思おうとしている。で、動く。やっぱりワクワクする。少しとどまる。あれ?何かしっくりこない。
なんだろう。なんでだろう。なにが、前と違うのかな。
まだ人と出会っていない。そんな感じかも。プロセスの中で、一歩一歩進んできている感じはあるけど、出現させたい子どもの事・寺子屋、当事者がいない。
私が情熱を途絶えることなく進むには?やはりそれは、何をおいても我が子のためとしか言いようがない。
前に手掛けてオルタナティブスクールの立ち上げ。体の奥から湧いて出てくるエネルギーは、マスクをつける、同調圧力の強い、精神性を破壊する公教育に通わせてはならない、という思い。「登校したくない」を選んだ娘にいま、この12歳、13歳という取り返すことのできない時間をどう過ごすか、どう人間らしく人間と接するか、娘の人生の土台となるものを用意することが私の使命と思っていたから、情熱は湧き上がり、それを実現のものとするためだから、なんのためらいもなく、ただただ猛進できた。
では、いまは?誰の為にか。
誰のための寺子屋か。
社会を変えたい、だから、教育を変えたい。それは、そう。だけど、その当事者の子どもがいない。
「寺子屋」を創ることが私の夢か。今日、私が興奮したこと、創業支援を自分の自営とこれから新しく創業しようとする法人とで申請できそうという連絡を受けて。私がやろうとしていることを説明して聞いた人が共感してくれて、応援するよ、と言ってくれたことを受けて。それって、寺子屋を創ることが喜びなのかな。
多分、違う。営業すること、自分のアイデアで人がワクワクする様子を見る事。それに猛烈にうれしさを感じたんだ。
それって、娘の為か。それは違う。
それって、まだ見ぬ寺子屋に通いたいっていうご家庭の為か。それも違う。
私の自己表現。これに触れた人が、「いいね!それ」「すごーい、応援します!」ってニコニコしてくれたとき。「それ、分かります!そういう世の中になって欲しい」「一体、あなた、何者なの?すごい発想だね」これらを聞いた時、猛烈にうれしかった。
自分の歓びのため。自己表現。
自由な、奇想天外な発想。そして、それを聞いた人が「おもしろい!」「楽しい!」「見てみたい!」っていう表情を見せた時。猛烈にうれしい。
では。それを、やるか。
私のやりたいことは、それだ。
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