恋について語り合いたい企画

さて、苫野さんが、いつも「哲学とはなんぞや」を語る時に、恋を例えるでしょ。あれでスイッチが入ってしまいました。

「自己ロマンの投影とそれへの陶酔」

ほどよい挫折と満たされなさがロマンを溜めていく。
「こんな自分じゃなかったらよかったのに」という思いの反動でロマンが生まれる。
恋とは幻想性、せつなさ、エロティシズムとの奇妙な融合

「恋に恋している」という言葉があるよね。それって、「自分が自分に陶酔している」ってことだったのか!って!

それって、やっぱり、自分が大好きで、自分が気持ちよくなるために、気持ちいいと思えるから陶酔したくなる。。つまり、自分が好きで好きでたまらないってことなんですか!!

恋とは、ある日突然降ってくることもある? 恋したいだなんて思っていなくても、パチンとスイッチが入ってしまうのかな。

恋していたのに、ずっと一緒にいることで、恋じゃなくなって、ただの存在に変わるのは、その相手に幻想性がなくなるから? いや、相手にじゃなく、自分の中に恋が現実になってしまって幻想感がなくなってしまうからか。恋から家族になって愛になってしまえば、恋心は消えちゃうのか。

ギリシャの時代、ソクラテスもプラトンも若者と恋に落ちた。お互いの知性に惹かれ合って。女性は取るにたらない(尊敬に値しない)存在だったから、知性のある若者が恋の対象だった。恋が精神性のみの渇望なら、分かる。でも、エロティシズムはどうなんだろう。エロスは、肉体でなく、それも精神から発露されるものだったのかな。そうであれば、やはり、性別は関係なく恋は成立するか。LGBTの組み合わせだろうが、見た目の所謂男性・女性組み合わせだろうが、取るに足らないことだったのかな。

でもやっぱり、生存・生殖という意味では、本能的に子孫を残せる組み合わせの方が強く働くってことかな。それで、そっちがノーマル化して行ったというか。

それが刷り込まれて、所謂、フェロモン的な「恋の作動」も生まれてきたのかなー。

青春時代の恋していた頃の景色や匂いや音楽が「恋の作動」を引き起こすこもあるかな。逆に、そんな気持ちになりたくて、作動させたくてそれらに近寄ってしまうこともあるかな。でも、それって、意識的に「恋したい」っていう、ちょっと企みみたい。どうしてそんな心の動きになるんだろう。自分自身、ロマンを求めたいから。それは、「反動」で?「退屈」だから?

こんな疑問、どうやったら語り合えるでしょう? 哲学ってどういう時に使うんですか? 本質観取されてる「恋」をもってして、私のこれらの疑問にどう向き合えばいいのーーー?

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