お盆だ。52歳だ。自分をだらだら振り返っています① 大きな人生の経験「出産」→長いです。

今日は2023.8.15。終戦記念日ですね。お盆休みだし、台風がきているし、なんだかいろいろゆったりした気分で自分を見ています。えっと、今日だけでなく、ここ数日そんな気分。夏に向かう太陽のエネルギーが増している時に草刈りや活動していてちょっと体に疲れがたまっていたのな。ちょうどこのお盆という期間がこの時期というのは季節と身体のバランスとでちょうど必要なタイミングに設定されているのかもですね。そう思うと、8月6日があり、9日があり15日に日本の大きな転換期が来たのも、太陽運行、宇宙の運行と密接なのかもしれない。そして、日本人は毎年それを意識して生活が巡っている。この宇宙のカラクリがあるのか、といま書いていて思いました。いやあ、何気なく過ごしてきた日常だけど、本当に大いなる法則性の中で生かされているのかとまた改めて思いました。


2023.8.15 自分を振り返るnoteを書いて悦に入っている私

さて、それはさておき、七宗町で私が取り組んでいる「ムラを作る」に向かう活動でだんだん、自分の使命なるものを自分で読み解いて、ちょっとこれじゃないか、と思い当ってきたので忘れないように、そして、これに共感してくださる方に参加してほしいと思いつづっていこうと思います。ちょっとファンタジーと思われるかもしれないので、魂のこととか、霊的なことということが嘘くさいやオカルト的、って思っちゃう人は無視してくださいね。

なんで私という人がこんなに社会活動を熱心にやりだしたか、ということがそもそも自分として不思議でした。いまいろんな方が集まってきてくれて語り合う中で、その方々にもお伝えしているのが「私は成育の過程で、そんなに苦労していない」ということなんです。もし、そういう「社会に対してなんとしてでも一糸報いたい!」という成育過程があるなら、分かるんだけど。というのが、私自身への疑問です。そこで、自分を振り返りつつ気づいたことを明らかにしようと書き始める事にしました。そうしたら当初書きたいと思ったことからひどく回り道しだしていますが、ひとまず書いていきます。

成育過程ですが。ひどく経済苦があったわけでもなし、両親にひどい目に合わされてもいない。学校もどちらかというと好きだった方だし、兄妹関係も特筆する諍いがあるわけでなし、むしろ非常に思いやりのある兄だし。友達関係も、思春期に人間関係に悩むことはあれども、深く無し。進学への苦労もなし、自分の目指した大学に進学でき(むしろ、目指したところ「しか」合格できなかった)学生時代も時代らしい学生の楽しさを味わい。就職は氷河期突入の時期だったけど、私より2期先輩の時代から「女性の総合職」と謳われだし、その道筋のお陰でさほど苦労なく総合職として就職できました。

就職後は、大人になっても娘は「年頃の娘として」の生活を送りなさいという父親が帰宅・門限がうるさいのと営業職で男性達の会話・飲み会、クライアントの要求がマッチしなくて、これは女性の生き方として難しいと思ったので1年半で退職し、そこからは老舗の木材問屋さんで事務職として約10年勤めることができて、その会社には本当に育ててもらえかわいがってもらえました。ついているとしか言いようのない勤務時代と思っています。

しいて言えば、彼氏ができるのが思ったより遅かったくらい。振り返ってみて、「自分の感じる人生の不足感」というのは性愛を知るのに時間がかかったかな、というくらい。それも後悔するとか、苦悩するとか、そんなことはなかったです。結果としてちゃんと彼氏ができたし、性愛を感じる経験もできてきたし。両親ともに、女は結婚して幸せになるという思いがあったのでプレッシャーはありましたが、それも特筆するほどひどくなく、親として当たり前に子どもに持つ願いだろうと思えます。とはいえ、苦悩というほどではなかったものの、30歳の時に、このままでいくと、「母親を憎んでしまうかも」という予感があったので、親元を「ようやく」離れたいと思え、31歳で一人暮らしを始めました。

その後、一人暮らしをしていた愛知県一宮市で和太鼓サークル「ぽんぽこ」に出会って、人生観が変わりました。変わったというか、本来の気持ちのいい生き方というか、人間には、「自己表現をしたい」という欲求があるんだ、と気づきました。そんなこと、ひと言も考えたことがなかったのに、総会のときだったか、みんなでご飯を食べているときだったか、自分の口から「自己表現」っていう言葉が出たことに自分で驚いたのは覚えています。

また、そのサークルは本当に明るくてお互いを尊重し合って思いやりがあって。自浄作用があって吸引力があったのです。そこにいると本当に心が明るくなってイキイキできて。そこには学歴や社会的立場や経済格差などなく本当に「自己表現を楽しむ。それも協働で」という人間の本質的な欲求だけで集まっているサークルだったといまでも思います。私の行動規範になった運命の出会いだと思っています。ちなみに夫とはそのサークルで出会い、友達関係だったのが、結婚しパートナー関係になって、いまもなんでも話せるパートナーシップを築いています。結婚して18年になりますが、とても楽しく学び合いの日々です。

夫に関してよく人に話しているのですが、彼は私のメンターです。そして、これは彼に言ったら気を悪くするかもしれないけど、時には私が彼のメンターにもなっているんじゃないかな、と思います。夫本人にもよく言っているので、彼も承知していますが、私がどうしてこんな活動的になったのか、いまのこの姿の私になったのか、はすべて夫がそう「教育」してきたんだよ、と言っています。「私はあなたに育てられたから、あきらめてね」が私がよく彼に言うセリフです。結婚後の日常会話、日常を送る中、彼との関係性で私という人間性は作られてきました。なので、パートナーシップについてもほんとに恵まれていると思っています。

子どもについてです。私と夫とは年齢差が7歳で、結婚は遅かったのです。さて、子どもが欲しいと思っても、34歳で結婚した私はすでに生殖には高齢で、今思えば、子宮内膜症や摂取してきた食べ物などの蓄積から不妊状態は当たり前だったんでしょうね。結婚時点でいい年の夫婦は早く子どもが欲しいと思えど、なかなか授かりません。当時、不妊治療という課題についても世間でよく言われるようになっていました。私は、年月だけは取り戻せないという思いがありましたので、それほど時間をあけずに不妊治療に取り組みました。

まず、「自分の子どもがある」ということに対しての感謝の思いは自身の不妊体質だったお陰だと思います。子どもが授かったのは奇跡、としか思えないからです。不妊治療は、当時悩みはしましたが精神が崩壊するほどの苦悩ではなかったです。でもトライしている間はそれなりに悩ましい気持ちを持っていました。3回目の体外受精をするときに、これでだめなら治療は終えようという思いで臨みました。岐阜市の高橋産婦人科の高橋先生をいまでも「神」だと思っているのですが、高橋先生に救ってもらったと思います。コーディネーターの先生は期待できないと言った私たちの受精卵を高橋先生は、これはいけるよと言い、そして本当に着床してくれました。(いまの私たちの娘のことです)

信じられない思いでした。というのは、「嬉しくて!」ということではなく、「妊娠するということがどういうことがまったく理解していない」ということに気づいたのです。体に何が起こるのか、もだし、精神的に生命を宿す、ということについてです。「妊娠したい」「子どもが欲しい」と思っていても、いざ着床すると、あまりにも何にも知らなかった、という思いでした。子どもを宿すっていうことに無知なんだということが「子を宿した」私に訪れた最初の感想でした。嬉しい!はもちろんあるのだけど、どこか別の視点で「子どもを宿しちゃった、大丈夫かな、私。子どもを産むなんてこと、自分の人生であっていいのかな」とちらっと思ったのを覚えています。

あ、振り返ると、そうそう、人生の節目節目でそう思う自分がいました。「こんな私にこんな大それた、めでたいことがあっていいのかな」という不思議な感覚。特に、目指していた大学の合格発表を見た時「受かってる。本当かな。受かっていいのかな」とか。その大学の卒業式はもっとひどかったですね。卒業式の証書を受けるまで「本当は、卒業資格なかったら、どうしよう。いやいや。それよりも本当は、この大学に受かっていなかったっていうことが判明してしまうかも!」と合格していたことすらまぼろしだったんじゃないか、って卒業式の間中心配していて、同級生にその後もずっと笑われていました。「香苗子、この大学に受かっていないって卒業式の時に本気で心配していたよね」って。卒業後も、就職しても確か20代半ばまで、卒業式の悪夢を何度か見ました。単位を落として再試を受けたことがあったのですが、夢の中でその試験をまた受けて、落ちているんです!本当に恐ろしい夢でした。ぱっと起きて、いま、何歳?まだ学生?って思う時がしばしばあったのが、いま思い出されました。なんの苦悩だったんでしょうね。

それと同じで、結婚するとき、本当に結婚したいと20代前半から思っていたのが叶うので、幸せ爆発でいいはずが、「本当に結婚することになっちゃった。いいのかな」って。なんか、キツネに化かされているんじゃないか、本当は全部夢なんじゃないか、って結婚の時も思っていましたね。そして、妊娠も。本当に着床したの?いいの?妊活が終わっていいのかな。この私が子どもを持っていいのかなって。→これって、いまスピリチュアル的なことを学んでいる中でよく聞くやつです。潜在意識のブロックっていうやつなんでしょうね。幸せになってはいけないっていう思いがどこかにある、っていうやつです。

でも、事実として起こる現象はちゃんと事実として起きていて着々と日々が過ぎる中で「実感」が湧いてきました。「わー、妊娠したんだー」って。だって、悪阻がきましたからね。結構苦しかった。食べ物が合わないって、これかーって。やたら揚げ物が食べたくなるタイプの悪阻でした。フライドポテトがいつも頭に浮かんできて、食べたい―って(笑)悪阻はきつかったですが、同居の義母がいたので、家庭生活はおばあちゃん(義母)に任せてゴロゴロできていたので、苦労と言うほどの苦労ではなかったです。ただ、その後人生で初めての恐怖を味わいました。

辛かった悪阻の時期も過ぎそろそろ安定期という時に、久しぶりに買い物を楽しもうって大型ショッピングモールに行きました。自分では楽しく無理していないつもりだったのですが、基本的に流産体質だったんです。あと、お腹が張る、という自分の体の感覚が分かっていなかったんです。→これは、あとで高橋先生に言われたんですが、流産する人は自分の体の状態に気づかない人が多いって。あー、これはいま書いていて、また大いなる気づきですね。だから、自分の体をよく知るっていうことは、幼い頃からちゃんと知らないといけない。自分の体を知る。本当に重要なことです。

買い物から帰り、ちょっと疲れたなとベッドで休んでいると、さすがにお腹の張りに気づきました、そして、寝ていて感じたのです、さーっと出血が出たのを。実は、着床が分かって1週間したとき、当時仕事をしていたのですが、なんのお知らせか、ポコッと椅子から落ちちゃったんです。そして、出血しました。その時に1週間安静にするために入院しました。その後、仕事は緊急で退職させてもらったという経緯がありました。なので、その経験からして、この出血が知らせる意味、すぐに分かりました。だって、しかも、その出血は「鮮血」だったのです。トイレでみて、鮮やかな真っ赤な血が流れ出ている。もう、わなわな震えました。絶対にこれはまずいって。

なので、間違いなく入院になるだろうという予想をもって、帰って来なくてもいい準備をして。着替えをバッグに詰め、自家用車でなくタクシーで病院に向かうことにして、夫に連絡して、おばあちゃんに事態を伝え。。。怖かった。いま、思い出しても怖くて震えてきます。涙が溢れてきました。よく、乗り越えれた、奇跡的だったって。

案の定、緊急入院でした。しかも、着床の時に神がかった診断をしてくれた高橋先生ですら言います。「これは、どうなるかわからない。流れる可能性も十分にある。あとは、赤ちゃんの生命力次第」って。全身に恐怖が広がりました。本当に怖れでわなわな震えるということが体に起きました。震えるんですね、恐怖で。まずはとにかく安静にして出血が止まること、お腹の張りが緩むこと、それだけしか事態を乗り越えることはない、ということで病室のベッドに横になりました。本当に怖かった。そして、実家の母さんに病室に来てもらいました。母さんは本当に気丈な人だったんです。うちの娘は母さんに救ってもらったといまでも思っています。私を気遣いつつ、きっと母さんも猛烈に不安だったけど、私にはあんたが不安になってはいけないと、励ましてくれて。本当に励ましてくれました。その気丈な思いでこの命をなんとしても繋ごう、と私の中にも勇気が芽生えたんだと思います。とにかく怖い中で、意識を怖くない方へ、大丈夫な方へ、意識を向けるということに取り組んだんです。

ちょっと、その時の思いは忘れてしまっていますがね。必死すぎて、もう覚えていたくない出来事なのでしょうね。母さんに笑えるマンガを持ってきてもらって、マンガを読んでいたのを覚えています。トイレに行くと出血が気になるんですよね。気になるけど、気にしないようにする、ということに取り組まされました。緊急入院して、1週間くらいすると、私の中に、あの鮮血で、この1週間乗り切ったから、これは大丈夫、という心の奥の方にある確信はきっとあったと思います。でも、予断はいかん、と自分で甘えてはいけないっていう最悪の状態も考えながら。いまとなっては、その最悪を想定していたのは、よくないようにも思うけど、私の性質が、楽観の中に最後は、そうじゃないことも受け入れる余白を作っておく、という思考クセはいまもあるように思います。

入院して、とにかく安静にすること、これが当時の私の使命だったので、本当に、じっとしていました。お風呂も入らず。後から夫がお風呂の話を茶化して言いますが、お風呂にひと月入らないことなどなんてことなかったですね。もっと入っていなくても気にならなかったと思います。お腹の子どもが流れることに比べれば耐えられないことなどなにもないって思えました。

とにかく、お腹の子どもが(いまの中3の娘)生命力のある魂だったことに感謝は尽きないです。彼女が生まれ出ることが彼女の使命だった、ということに救われました。ひと月絶対安静をすぎ、出血も減り、妊娠6カ月を過ぎようとしていました。まだまだ予断は許さないものの、緊急事態は抜けた感じは実感しました。そしてもうひと月安静状態でありつつも、少しづつ動いていい、ということでお風呂が解禁されました。ひと月、じっと寝ていることがどれほど筋力を奪うか、ということも体験しました。シャワー室へ移動していくこと、シャワーを浴びることがどんなに体力を使う事か体験しました。

それで、なんとか7カ月をやり過ごしたくらいで、お腹の赤ちゃんは人間への進化は遂げてきているから最悪な事態は超えた、という思いになりました。でも、もちろん、10カ月お腹にいることが望ましいに決まっているのであとは、カレンダーとにらめっこ。一日一日、よくお腹にいてくれていると一日でも長くお腹にいてね、とそれだけを願っていました。8カ月になる頃、高橋先生からも、もう赤ちゃんの生命としては大丈夫、とエコーを見て成長を確認してもらったんでしょう、退院オッケーの許可がでました。でもとにかくお腹は張りやすく流産体質っていうことは自覚したので、これは周りの家族に協力をお願いすることにして、実家で安静生活を継続させてもらうことにしました。

エコーでみるお腹の中の赤ちゃん

その後は、無事に9カ月目まで過ぎ、10カ月目になる前には今度は無事の出産の為に動くように指示が変わり散歩するまでに。もういつ生まれても大丈夫という時期を迎えられたことに、深い感謝ですが、今度はちゃんと出産できるか、自分の可能性に不安になってしまったんですね。いざ陣痛となったら、心配が極限になったようで血圧が120を超えてしまいました。高齢出産になることや妊娠経緯のせいか陣痛入院したものの、高橋先生の判断で自然分娩から急遽帝王切開になり、そして無事の出産となりました。その後、子どもを授かることはなかったので、女性の本来の機能である自然分娩という体験だけは今世、果たすことはできませんでした。

退院後、予定日まであとひと月を切った時

ですが、私の人生の生殖期間、引き返すことのできない時期を悔いなく過ごせたことには感謝しかありません。

緊急帝王切開になり、外に出てきた娘だけど抱くことはできず。
大好きな二人のばあちゃん。この二人がいなければ娘は誕生していない。

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