「教育システム抜本改革提言」のための寺子屋じゃあさ活動

現在の教育のシステム、7歳になったら就学して学校教育法第1条の要件を満たす学校で教育を受ける、という社会システムについて、歴史的に導入されて有効であった時代から、社会環境、人的環境が変遷し、機能不全を起こし遂には不全どころか問題を生み出す装置にまで破綻がきているという認識を、人々が受容する時代にきた、と考えています。

大きな壁は、それを受け入れられないという種の人々が世間巷を構成しており社会の縮図としての「公教育」では、組織が大きすぎることと、「公である」という縛り(地域の声を反映しなければならない。ただ一個の人の為に動くことは公共の益に反している、というある種間違った概念)にあり、変革が難しいというところです。

公教育を変えていきにくい一番の弊害は「公である」という、これまたそもそもの前提だというところが皮肉だったりします。それはさておき。

寺子屋「じゃあさ」で取り組んでいることは、その教育システムが機能していた時代から社会そのものの前提が変化しており、「いまの情勢にマッチしたものに前提そのものを大きく変えましょう」という提言にまで持っていきたいという取り組みです。

いま必要なのは「教育」という概念ではなく、「人が精神的に成熟するのを育む」という概念で子どもの成長の時期を考えることだと思うのです。これは、まだ熟語でどう表現していいのか、分かりません。それとも、これらの概念を二文字で表現できるのか、ということも、もっと大前提として協議のいることかもしれません。文字情報は受け取り手にその意味合いの解釈を委ねてしまうのに、こんなに大きな意義のある人間形成の土台の期間をたった二文字で表現するのは「土台無理」なのかも。

さて、大きく前提そのものを変える、ということを私がどう考えているかを簡単に説明すると、「7歳~9歳は保育園児の延長線にあり、知識教育の時間は尚早であり(なんなら、弊害にすらなる)全身を使った身体遊び、自然の中で健全な知覚感覚を鍛える、イマジネーション遊び、人との関係の中で自己制御を知る体験を多くする ということに重点を置いて、日々の生活を一定のリズムで送る、ということをする期間だ」というものです。

まったく、知識教育を排除する、ということではないのですが、それは、絵本を読んだり遊びの中で子ども自身が関心を持ったものについて「補足教授」する、ということに軸足をおき、大人側から「教え込む」という知識教育はしない、ということです。

その昔、7歳からの就学で子どもたちがぐんぐん伸びた、というのは、それまでの幼少期に散々遊んで、心の中の精神性が育まれ探究意欲が増していたからだと思うのです。そういう幼少期を過ごせた時代だったので、子どもたち自身の意欲に繋がり成果をあげてこれた、と感じます。いまの子どもたちが6歳までの間に遊び尽くしていれば、いまの教育システムも機能していると思うのですが、前提の幼少期の過ごし方が、時代の産物ですが、「砂の基礎」状態である子どもたちもいると感じます。

それは、家庭に責任がある、ということを言っているのではなく、「時代の産物」ということで考えた方がいいと思うのです。親世代そのものも、時代として、それを得てこれなかったので、当然基礎作りについて伝承がされていない社会になってしまった、ということです。

そして、歴史を振り返って子どもたちをどうやって成長させるか、という運動自体それほど歴史は古くなく、産業革命のころに、児童労働をさせられていた子ども達を、子どもの時代の過ごし方として適当でない、と思いを寄せた工場主が子ども達だけを集めて過ごす場を作ったことに起源があるわけです。日本の場合は寺子屋が発生したのには日本らしい風土と感性があったから独自の子どもの成長に資する「システム」が発生してきたと考えればよいのです。

現代、私は、既存の公教育(学校教育法)による教育システムが不全から破壊的な作用をもたらすところまできたと思うのです。それは、「システム自体の賞味期限が切れた」ということです。それに携わる先生方の能力や人間性の話ではないのです。まったく、社会構造の変化の話なのです。なので、公教育側に携わる先生方への批判ではなく単純に、その賞味期限切れのモノを使うのは弊害だから、いまにあったものに、変えましょうよ、という話です。

店頭で賞味期限の切れた食品は廃棄しますよね。金属疲労したブランコは撤去しますよね。ですが、危ない危ないと言われている原子炉は止めることもできず、また、再稼働をする、ということを選択してしまう社会になってしまっているわけです。文脈が合わないことがまかり通る社会になってしまっているわけです。

それを、文脈を通しましょう。賞味期限がきたもの、危険が迫るものは使用をやめて、いまの社会にあったものでみんなの望ましい未来を作れるものにしましょうね。という話です。

それでいえば、子ども達の姿を見て私が感じるのは、とにかく幼少期に人間関係の様々なことを経験していなさすぎ。身体を使った遊びの経験が少ない。手に触れたものが少なくて自分の生きている世界(肉体以外のこの現実という世界)がなんであるか、体感として得ていなさすぎ。という感じを受けます。

ずいぶん前に聞いてびっくりしたのが、都会のタワーマンションの高層部に住んでいると虫など見たことがないそうです。またエレベーターから降りて歩く通路には絨毯が敷いてあり、足音もしないそう。そんなところで育った子どもは、この世界の何を知ることができるのでしょうか。自分の五感を通してでしかこの世界を知ることなどできない訳です。そこで育った子どもの内面を覗くと何が聞こえてきますか。自分で自分のいるところが分からない訳です。モヤモヤとした白い霧なのか、グレーの雲なのか、夜に連れ出されている子だったらギラギラとした電気がチカチカと光る印象の中に自分がいるわけです。もし私だったらどうでしょう。不安で不安で仕方ないですよね。

そんなとき、頼りになるのは自分の肉親です。それがその時、自分の不安を受け止めてこの世界を教えてくれなかったらどうでしょう。もう絶望的ですよね。この世界で生きていける勇気など持てるはずがありません。これは極端な話ですが。

目の前の子どもの中に自分を投影してその子がどう感じているか感じると、その子どもの混乱ぶりはよく分かると思うし、自分だったら、いてもたってもいられないくらいの不安、感じませんか。そうやって、自分の外的環境を知らずに自分の足もとがぐらぐらした状態で文字情報・数字情報を覚えよ、覚えよ、と押し付けられ、隣の誰かや大人に頼りたくても、じっとしていることを強要されて、その子どもたちは何を学べるというのでしょうか。絶望だけではないかしら。

そこから逃げ出したい、とその場に行くことを拒絶できた子どもは、一種救われたのかもしれないです。でも一方、行かないことを選択した子どもたちが本来この世界を知るための活動を本人達がすることができなかったら、どうでしょう。それはそれで、人生の道のりは困難になることでしょう。

少し話は広がってしまいますが、私は大人は子どものアドボカシー(代弁者)の役目を果たせば、子どもはその大人に信頼を寄せてくると思っています。自分の気持ちを理解してくれた、どう表現していいのかも分からないこの気持ちはそう表現するのか!と。幼く、表現力も未熟な子ども達は言い表す術を持ち合わせていないのです。それを持てるように(表現力を身につける)伴走するのが大人の務めだと思います。そうして表現することを身につけた子どもは他者に気持ちを伝え伝わったという成功体験をもとに人間関係って素晴らしいものだと感じて成長していけます。人間関係がわずらわしいものではなく、嬉しいものになれば、人との関わりを積極的に行うことができるのです。そして、表現することの素晴らしさを知った子どもはどんどん創造性を発揮します。自信をもって自己表現ができ、円滑な人間関係を結べることこそ、幸せな人生だとは思いませんか。

さて、話を元に戻して。

いまの課題は、就学迄の時間の過ごし方が、いまの教育システムが導入された時代と違い過ぎている、ということにもっと社会が肝要にならないといけない、という思いです。誰が悪いのではなく、そうなってしまったんだ、という事実を受け入れ、いまの子ども達が成長してきているその背景を見つめ、その背景の上、これからどう自己成長を遂げられるか、をその一人ひとりのもつ資質とともに「補正」してあげることが知識習得したいという意欲を持つまでに行うべき「子どもの成長を育む」ことだと思うのです。

しかしながら一方で、知識教育こそ、子どもの辿る道筋だ、とお考えの方もおみえでしょう。それを曲げてまで、ということは「多様な社会を目指す」に反すると思うのです。なので、選択肢を増やしましょう、という事なんです。憲法にも、選択の自由は謳われています。この「人がそれぞれ感じる幸福の尺度は違うのでそれを尊重しましょう」に徹した社会システムを構築しましょう、というのが、これからの政治になってくると思います。

提言としては、現在の就学前の子どもの日常の送り方に選択肢があるのと同様に、7歳以降も選択肢を用意しませんか、というものです。現在のように知識教育を望む子ども・家庭においては、そちらのルートを。そうでない家庭には、別の選択肢を用意する。文科省管轄の幼稚園系列が知識教育コース。厚生労働省管轄の保育園系列が感覚育成コース。

上記の知識教育コースについては、現在の公教育と同じ事なので制度上このまま進んでいけばよいのです。感覚育成コースは、フリースクールやホームエデュケーションや、なんでもいいのです。それこそ、家庭が独自でこのように育成したい、ということをオールOKとしてしまえばいいわけです。

そして、いま、学校に付帯させられている、学校区内全戸の子どもの事を掌握し健康管理を含め所在の確認作業などという業務を切り離してあげる。学校に来ない子どもの管理までを学校にさせない、というだけで、公教育は本来の子どもの教育の為の時間を割けるようになるので、先生方に余裕ができ、子ども達にもっと寄り添った時間を創り上げていけるのです。

来ない子どもの管理は子どもの住民票の自治区がすればよいのです。単に「感覚育成コースを選択した家庭」と記すだけでよいのです。その過程の子どもの健康診断を行政区がやらせなければならない、と考えなければよいのです。ただし、その陰でネグレクトや虐待が潜んでいる場合は行政権の発動はいうに及ばないですが。

そうした方が、もっと家庭と行政が近くなるので、むしろ第三者介入ができるようになり、家族支援が本当に必要なケースを孤立させずに、保護者の資質としてサポートが必要な家庭に早期介入し公助として一個の人間を社会から分断させずに済む、ということに地域一丸となる在り方に変わっていけるはずです。行政が本来の、あり方に戻る、ということにおいても有効だと思います。

さて、そういった私の仮定を実地検証するフィールドワークでもある「寺子屋じゃあさ」です。お陰様で通っている子どもたちの可能性・創造性・人間性には目を見張ることばかりで、日々、大人側に学びの機会を与えてくれています。子どもの方が、よりよい社会作りを自然な形で実現できています。そこにヒントがたくさん隠れています。私たち大人は、いまこそ、自由が保障されている中で育つ子どもの姿勢から学び、社会システムを見直し作り変えることに踏み出す時代にいることを自覚し、勇気を持って行動することが、この時代に生まれてきた者の使命だと思うのです。



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