オープン・エソテリカ 石川潤一さんとの対話から ***テーマ:人間の中にある怒り を石川さんに解説してもらう***

FB友達の石川潤一さんに時折、質問して解説してもらっています。石川さんとは直接お会いしていなく、また、講座も受講していないのですが、いつも丁寧に教えてくださり、本当に感謝しています。今回、石川さんの投稿した内容に私が続けて質問したことについて解説していただいた事柄が残しておきたい内容だったので、noteに貼り付けさせて頂きます。(了承済)そのやり取りの下に、石川さんの掲載された記事も合わせて載せます。

(私)人間の中にある怒り、というものを取り扱ってほしいです。因果応報はなぜ存在するのか。それに大義はあるのか。など。

(石川さん)怒りには、義憤公憤と私憤私怨の2種類があります。どちらも、人間のエーテル体の奥底にある「破壊のかまど」と呼ばれるマグマのような怒りの源泉を発火させます。「破壊のかまど」は地上の物質生活の中で心身に浸透した物質性を霊化するための根源的エネルギーですが、そのエネルギーが噴出すると人間は破壊衝動に駆られてしまうので、通常は抑制されています。義憤公憤を抱いて死んだ人間は、次の地上への転生で、社会に影響力を及ぼす強い正義感を生来的に持ちます。私憤私怨を抱いたまま死んだ人は、次の転生では、他者に忌避されるような性質を持ちます。因果応報の大義とは、自らが為した行為に自ら責任を持つための法則だと言えるでしょう。

(私)これは勉強会の題材に取り上げてほしいです。怒りの表現に、対して(日本)社会が恐れている、臆病になっている、誤解している、と思っている反面、縄文の人だったらどうだろうと思うとき。いくらの縄文の人でも「嫌い」という感情は持つように思い、その時は怒るんじゃないかなと。でもその「怒る」は争いじゃなく、一方が怒り、一方はそれを受け退散する、怒った方は目の前からいなくなられたらそれで終了で尾を引かない。怒られた方も因果応報的に、自分に感じるものがあり、すんなり引き下がれる。そしてコミュニティは緩やかな結合で成り立つことに誰しも理解があり、行くも来るも自在。それは悪くもなんともない。そういう社会だったんじゃないかなって。一方、もし縄文の人に嫌いと怒りがないんだったら、私は自分の性質に絶望するしかなく、そこに魂の進化を探求するのは困難極まりなく、暗澹たる思いになってしまうのです。なので、怒りについて探求したいです。

(石川さん)縄文人に他者への嫌悪や怒りがなかったか、と問うのは面白い視点です。人間が個人意識を持てるようになったのは16世紀以降です。それ以前には多くの人々は自分自身を、血族や部族全体と同一視していました。血統によって自分自身のアイデンティティを保持していたのです。そのような血族意識は古代に遡るほど濃厚になります。そして古来、人類は他の血族や部族との闘いを繰り返しながら進化してきました。なので当然ながら縄文時代にも、或る部族が他の部族に怒りを向けて戦うことはあったでしょう。しかし部族と部族の戦いは時を経て両部族の血の融合や統合を生み出します。縄文人には人間同士の戦闘はほとんどなかったと言われる所以は、戦いよりも融合のほうが速やかに行なわれたからかもしれません。
 16世紀以降になって人間が個人意識を持てるようになったのは、守護神と呼ばれる高次の存在が、個人個人を守護するようになったからです。それ以前の時代には、血族霊、部族霊とも呼べる守護神が、個々人でなく血族や部族全体を守護してして、個々人は謂わば集合的守護神に共同で守護されていたと言えます。縄文時代に部族と部族とが闘うのは、それぞれの部族を守護する神霊存在たちが融合して、より大きな存在に進化期するためでした。古代の戦闘は、相手部族を滅亡させるためでなく、民族神同士の融合のためだったのです。しかし16世紀以降は、人間の個人意識が強くなるにつれ、個々人の利己性も増大し、戦う相手を殲滅するまで殺戮を繰り返すという戦争が起こるようになりました。ヨーロッパでは民族同士の戦いと融合が終焉した16世紀以降に、大航海時代が始まり、アジア、アフリカ、アメリカ大陸への侵略が始まりました。日本では16世紀半ばにちょうど戦国時代に突入しています。この個人主義の始まった時代を、シュタイナーは意識魂の時代と呼んでいます。日本では織田信長が意識魂を初めて体現した代表格でしょう。徳川家康は日本での意識魂の急速な発達にストップをかけたと言えます。そして日本に再び意識魂発達の荒波が押し寄せるのは幕末になります。

ここまで。

これが石川さんに「怒り」についてお聞きした時にでてきた解説です。なんとも興味深いではないですか。引き続き、この意識魂のところ、日本での出来事などについても語らいたいものです。岐阜県加茂郡七宗町で、大人向けの学習会をいろいろと企画していきたいと思っています。石川さんにはぜひお越しいただいて学びたいと思っています。

さて、そもそも私が石川さんのどの投稿に対してコメントをしたから、このやりとりになったのか。元投稿の記事を載せておきます。ぜひ、お読みいただければと思います。

****************************

人間の魂には、記憶、思考、感情、意志という主要な機能が4つあります。

記憶は土星紀、思考は太陽紀、感情は月紀、そして意志はこの地球紀に神霊存在たちからそれぞれ人間に付与された、とシュタイナーは言及しています。

月紀においては、人間は意志をもたず、人間よりも高次の天使存在たちが人間の意志を担っていた、ともシュタイナーは霊視しています。

そしてこの地球紀では、人間自身に意志機能が任され、天使存在たちは人間のカルマを担っています。

つまり、人間の人生に影響を及ぼす見えざる運命の力を、天使存在たちが担っているということです。

或る人が明日は遠方の温泉に行こうと計画していたとします。

その計画は人間の自由意志により為されます。

翌朝起きると何か嫌な夢見があり、何となくどこにも行きたくない気分になり、温泉旅行を中止したとします。

その人がもしも温泉旅行を実行していたら、途中で事故に遭うか温泉地で転倒して大怪我を負っていたかも知れません。

しかし天使存在がその人の無意識に関与して、意志を萎えさせる、ということが起こり得ます。

天使存在は、その人が事故に遭ったり怪我をしたりしないように、その人のカルマに介入したわけです。

その人は温泉旅行に行かず、家でのんびり過ごします。

そして、旅行に行かなくてよかったなと何となく思う時に、ふと、守護天使の息吹を感じ取るかもしれません。

シュタイナーの著作『霊視と霊聴』では、守護天使の働きを感受するための智慧が詳細に言及されています。

人生は自分の意志通りには進まない。

自分の望みや努力による進退以上に幸運や不運の力が人生を右往左往させる。

人間の自由意志と見えざる運命の力とは人生のここかしこで常に拮抗している。

自分の自由意志を貫こうと努めるほど、運命の力がどのように及ぼうとしているのかが見えなくなる。

けれども自由意志を半ば放棄して、自らの人生を見えざる流れに委ねていくと、運営の流れがおぼろげながら見えてくる。

そうしてその流れを静観していくとやがて直観するようになる。

人間の運命とは地上の法則あるいは人間の力を超えた高次の力によりつかさどられているものだと。

しかしまたこうも直覚するだろう。

運命に身を委ねたほうが物事は滞りなく運ぶだろうが、それは高次の力に支配されたまま、もしくは依存したままだということ。

己れの自由意志を貫こうとすることは、高次の力に背くことになるかもしれないが、それが人間存在の使命であり、高次の存在たちが人間に託している力なのだと。

ここで新約聖書のキリストの言葉が思い起こる。

囲いの中で従順にしている多くの羊たちよりも、囲いから脱して彷徨の果てに戻ってきた1匹の羊を神は愛するだろう、と。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?