いま、ライオンの隠れ家でどういう学校を目指すのか。一人の理事の考え ーその①ー

 今日、ライオンの隠れ家にフリースクールの見学に来られた方とお話しをしているうちに、いろんなことが自分で分かってきたので、その覚えに記しておこうと思います。振り返りもあるので、いまの考えに行きつくまでプロセスが長いですが。

 何を書きたいか、といえば、私がいまなぜ、「夢見る学校」を見ないのか、ということです。2022年、「夢見る学校」の話題がたくさん出ていました。世間のみなさんが、「ああ、夢見る学校みたいな学校が望ましいよね!」と胸を躍らせているのに、フリースクールをやっているのに、私は観に行ったりしないのです。どうしてなんでしょうね。私は「夢見る学校」で胸が躍るのは、もう過ぎてしまったのです。というか、変わってきた。
 いや、それ(こういった学校が本当に望み!ってワクワクする思い)って、私だって同じように通ってきた道(学校を変えたいという思い)なんですけどね。いまは、「学校創りをしている私は、何か違う観点になっている」と今日対話をしながら、はっきりと自分の言葉として出てきて、しっかりと自己認識したっていうか。

 私も娘が保育園の年中くらいの時に、「きのくに自由学校」に行かせたいなぁ、と思ったんです。自分が保育士試験を受けるために学んでいるときに出会ったいろいろな資料や本を通して知ったきのくに自由学校。そして、堀さんの本を読んでそこから知ったニイルとか。その当時は興奮してしっかり読んだつもりだけど、いまは、それらは私の潜在の中に落ち込んでいて具体的に私の言葉では出てこないですが、でも、感銘をうけたんです。私にとっても「きのくに自由学校」を知ったことがいまの活動の原点に変わりないんです。

 私の住むところからなら、福井県勝山のきのくになら、通えなくない(といっても入寮ですが)と思ったんです。それで、その学費・生活費の為にはなんとしても自分の収入をあげようと、保育士試験に受かってしっかり収入を取ろうと思ったわけです。だけど、試験は一発では受からず、延べ4年かかったので、すでに娘は小2に。それにやはり現実的な金銭面の問題もあり、いまから9年位前(2013年くらい)に知った「きのくに自由学校」は断念したのです。代わりに、自分の住むエリアにこういった学校を創りたいと思いました。

 その「創りたい」という思いは、「公教育を変える」という動きになりました。それまでにも、在籍の小学校の校長先生は何かと意見交換を友好的にできていたのですが、すこしずつ、先生の考え方に違和感を感じるようになりました。決定打は、岐阜市のとある中学校で起きた自死の出来事に対しての校長先生の意見でした。私は、その意見を聞き、「これは、公教育はダメだ」と思ったのです。研修校で起きた痛ましい自死の出来事を、校長先生が我が事のように痛ましく思えない。むしろ、当事者の子どもを責めるような発言をしたことに、、、。この「研修校」で研修を受けた人物が校長先生になれる、という構図である以上、学校が本質的に変わるはずがない、と思ったのです。

 そこで次は、行政へ働きかけようと行動しました。市の学校教育課へ「市全体で公教育を考えるプロジェクト」というのを起こすのはどうでしょうか、と提案を持ち込んだのです。割愛しますが、さまざまな提案も、一介の主婦が持ち込んでも実施には遠く及ばず。まあ、そりゃ、そうでしょうね。→なので、これが伏線になり、2021年の各務原市議選に出馬したんですけどね。市議になれば、いろいろ働きかけができるだろう、と思ったんです。

 学校とは、地域のサポートなしに運営が難しいということで、それこそ10年前くらいから「地域コミュニティスクール」というような仕組みが作られています。私の地域は「学校運営協議会」という立派な名前の組織が中
学校エリアごとにあるのですが、それが、導入の意図のように機能していないということも分かり、地域の自治会長さんに頼んで、その組織に入れて欲しいと何度もお願いをしました。自治会長さんは、「ええよええよ。あんたみたいにやる気がある人が入るのがいいから、推薦しておくね」と答えてくれましたが、その「運営協議会」に名を連ねられるのは、PTA会長だった人、地域の肩書のある人、民生委員、自治会長、など、地域貢献の役割のある人しか召喚されないのです。どんなに学校に働きかけたい、協働したいと思っても、ここでもまた、一介の主婦には出番がないのです。

 そう思って、「じゃあ、やはり、PTAの役員になって直接学校に提案などいえるようにしたい」と、「普通は」だれも手を挙げないようなPTAに自分からやりたいと申し出ました。でも、そうやって決まる役員はいわゆる「子役」です。PTAのいろいろな事柄に首を突っ込める「執行部」というのは、現役が次の役員さんをスカウトして決められている、ということが分かり、子役がなにか提案する、なんていうのは非現実的でした。じゃあ、もう小学校では無理だ、と思い、今度は中学校に娘が進学した年に「執行部やります」と手を挙げて、ようやくPTAの中で発言できるところまで入り込みました。ところが、中学校のPTA役員にしても、まったく自立して学校に対して対等で提案できる組織ではなかったのです。始まってすぐに出た話題は、「次の執行部をどうやって決めるか」ということ。そして、一年間を通して一番の解決しないといけないことは、とにかく「次の役員をどう集めるか」に尽きます。役員を決めるのが仕事の中学校のPTA役員って、いったい何のために存在しているんでしょうかね。これは、小学校はまだ役割の実態はあると思うのですが、中学校は子ども達がすでに自分たちで学校運営の協力者になれるので、大人の出番はそもそもあまりないという正常なことなのかもしれません。学校で、保護者総出の問題が起きないっていうのは、PTAとしては望ましいですよね。

 ということで、公教育に何か、提案するなんていうことは私の知恵では不可能となったのです。私のような一人の主婦が「きのくに自由学校」のような考え方を学校の現場に伝える、ということはどんなルートもない、と悟りました。加えて、娘は不登校児でないし、「普通に」学校に通えているし、娘を「だし」に学校に変わってもらいたいというアクションもできないわけです。私は娘のことではなく、社会全体として学校を変えたいと思っているのですが、先方(学校側、市の学校教育課、教育委員会)にはそれを聞こうとするだけの根拠が私にはないのです。

 小学校6年生の2月3月くらいに娘は少し、休むことがありました。それでも、さほど不登校の気配まではなかったのが、中学1年の4月~7月の間に、だんだん休む日が見えてきました。コロナ休校とコロナで無理に学校登校しなくてよい、という風潮が幸いしたのです。娘は休みたいと言いやすくなり、私も休んでいいよと言いやすくなったのです。そうこうしているうちに中学1年の夏休みになり、ちょうどお盆の頃にコロナ感染しました。学校が始まった後にきっといろいろ感染が増えるだろうし、自宅待機期間も微妙だから、始まっても数日は休ませようかな、と思ったのが娘にはちょうどよかったようです。「学校に行きたくない」とちゃんと自分から伝えてきました。実は、小学校のうちから夜中に泣いていることもあったと。学校に登校した後でお腹が痛い、熱が出た、ということで迎えにいくことも増えていた中学校の前半だったので、「もうしっかり体調に不調が現れているし、自分の言葉で言えたからその気持ちの通りでいいよ」と不登校児になりました。(私は、「非登校を選んだ」と思っていますが)

 さてさて、前置きは長くなりました。これまでは、公教育に対してのアクションだったけど、もうそちらに向かわなくていいのです。だって、娘は公教育に行かないから。私も行って欲しくないから。であれば、私がすることって、なあに? それは、ようやく私は我が子の為に「公教育と違う学校を創る」が我が事になったのです。

2022.10.14 ライオンの隠れ家に見学にきてくれたきくちゃんと。
私のいまの思いを表出させてくれた

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