読解力の低下と読書習慣

読解力の低下と読書習慣の因果関係は、やはりあると思う。では、読解力を高める為に、教師始め、大人たちは、子供にどう声を掛けるのか?

「本を読まないと読解力って培われないよ」「もっと本を読みましょう」小学校辺りだと、読書週間・月間などとキャンペーンを打って、読んだらシール1枚、何枚貯まったら、表彰というやり方を導入する学校が多いのでは。実際、娘の小学校では読書通帳なるものが導入された時期もありました。そういえば、ここ2~3年は聞いたことがないな。その取り組みは止めたのかな。必読書というのもありました。1年間で課題図書を6冊読みなさいと。さて、これらの取り組みで子供たちは本当に本が好きになって、読書をするようになるのでしょうか。

最近は、ビブリオバトルやアクティブ・ブック・ダイアローグなど読書を主体的に取り組む方法や実践の場もあって、一旦読書が好きになった人たちはこの「読解力の低下」といった世界とは無縁ではないでしょうか。ますます思考する力、想像する力も培われ、コミュニケーション能力の高まりも期待できると思います。中日新聞にもビブリオのコーナーがあって、高校生や若い人が生き生きとコメントを寄せていますね。この方々は読書への目覚めがあり、読解力と結びつけた話をする必要はないと思いますが、まあ、上記のテストを受ければ、評価される側になるのではないかと思います。

問題は、そこ(読書を好きになる)にどのように到達するか、ということでしょう。娘の小4の冬休みの図書に関する出来事を記します。まさに「本に親しんで欲しい」という私の願い、「好きな本を読みたい」という娘の思いを踏みにじる出来事でした。しばらくしても、どうしてもクラス担任の教育方針の愚かさに、こんなことは放置できないと学校に出向き、教頭先生に思いを伝えました。というのは、娘が怒りまくっていたからです。

「冬休みに2冊持ち帰って家庭で読書をしましょう」という課題がでました。これには賛成です。大いに学校で声掛けをして欲しいし、自主的に本と親しめない子たちには「宿題」という形はありだと思っています。学校の子ども達への声掛けはここまでだと私は思っています。目的は「本に親しむ」⇒大大目標「読解力を付ける」、大目標「読書が好きになる」、小目標「本を読むことに抵抗感を減らす」だと思います。本が嫌いな子たちにとっては、この「冬休みに2冊持ち帰る」ということすら本当は想像を絶する拷問かもしれません。しかし、そういう子達にとっては、なおさら先生の働きかけ、先生や保護者の連携が必要となってくる場面で、それこそ、先生の指導の腕の見せ所だと思うのです。いかに本嫌いな子たちをその気にさせるか。

では、「そこそこ本を読める子供」「本を読める子」「読書が大好きな子」たちにとって、この「冬休みの2冊」にはどういう意味があるのでしょう。それは、家でぼーーっとする時間に「課題」として本を読まなければいけない。だったら、せめて好きな本を読みたい、と思うのが心情ではないでしょうか。学校の図書館で、タイトルを眺めつつ、頭の中では自宅のソファやコタツや部屋のカーテンを思い浮かべ、その空間で何を読んだら楽しいかな~と想像して、本をチョイスしています。そしてワクワクした気持ちで本を手に貸し出し受付をした矢先、担任に「課題図書にしなきゃダメ!」

「え~?1冊は課題図書だから、もう1冊は好きな本がいい」「私は、年間の必読書数6冊のうち、いま4冊まで行っていて、冬休みに1冊読んで3学期にもう1冊読むから年間の冊数には到達するから、2冊のうちの1冊は自由に選ばせてほしい」・・・この思いを伝えるやり取りを、さあ、小4の子どもが担任とできたでしょうか。

できるわけありません。まず、第一に先生には従うものという刷り込みが児童にはなされています。そして、言語でここまでのことを説明できる能力は備わっていません。上記の娘の気持ちも自宅で自由に語らせ、私がよく掴めない状況を聞き返したり、質問したり、娘の言っていることを復唱して、要点をまとめられたのです。そのやり取りを担任は学校生活の中で40人近い子ども達と毎日行っているでしょうか。あり得ません。

まず、2冊のうち、1冊を課題図書に指定している時点で、間違っていると思いますが、「冬休みも授業の一環」と学校が思うのであれば百歩譲ります。しかし、どうしてもう1冊を自由に選ばせないのでしょうか。子供の「読みたい本を読みたい」という自発的に本に親しむ力を伸ばす絶好の機会を潰すことに力を注ぐのでしょう。

娘が怒りながら言った事です。「先生は、クラスの全員を(早く)必読書達成させたいんだよ。そうすると先生が校長先生に褒めてもらえるから。自分のためなんだよ」そして、私の「あなたの気持ちは良くわかるし、私も冬休みにどうせ読むなら好きな本を読んで欲しいから、先生に手紙を書いて伝えてあげようか」と言ったら、「そうして欲しい」と言いました。しかし、そのじっくりしたやり取りをした事で娘の気が収まったのか、翌日、「お母さん、もういいよ。課題図書2冊で。だから手紙はもういいよ、ありがとう」と。

私は、いやいや、これはとっても重要な事で、怒りの矛を収めないで欲しいい!と「いいんだよ、こういうことを伝える事は悪いことではないんだよ、先生にはちゃんと知ってもらわないといけないことなんだよ」と話しましたが、怒りが静まった娘は、「図書の話」から「先生への不信感」に問題は変わっていて、それについては「母親が理解してくれた」という事で解決してしまったようでした。なので、娘が折り合いを付けたことを蒸し返すのは、娘の頑張りを踏みにじってしまう、と思い、書いた手紙は提出しませんでした。

しかしながら、この出来事は、完全に私の担任に対する強烈な不信感につながり、娘から伝え聞く学級での担任と児童とのいろんな出来事も、「さもありなん」という確信になりました。そして、その出来事から1か月くらいした後、別件もあり、学校に出向き、その際に教頭先生に伝えました。しかしながら、それは担任にフィードバックされた様子はなく、年度が変わり、校長先生と話す機会にその話をもう一度しましたが、教頭先生から校長先生へも伝わっていないことが分かりました。

「読書をすれば読解力の向上に繋がる」これは、少し違っていて「読書をする習慣を通して、本を読むことが好きになり、主体的に読むことに取り組めるようになると、読解力は高まる」だと思います。読書数を単に増やすことで読解力が培われるというのは、途中の過程を理解していないあまりにも短絡的な表現です。それは、普通それほどまで、子供の発達や教育や心理や、そういったことを知らない向きの人が発言するセリフであり、標語であり、少なくとも学校で子供の教育に携わる教職員はそんな短絡的な標語の為の取り組みをするべきではないのです。もっと、子供の心と発達の関係性に目を向けるべきなのです。麹町中学校校長の工藤先生の言葉にもありますが、「手段が目的になっている」の典型的な例だと思います。読書冊数を伸ばすことの為の取り組みを現場の教員は一生懸命考え、その為の段取りをします。図書カードを作ったり、シールを用意したり、表彰状を印刷し、個人の到達冊数を、もしかしたら、エクセルに入力しているかもしれません。そして、下手すりゃ、どういうジャンルを読み、その冊数と国語の成績を分析し懇談会で、読書数が少ないから、読解力はあまり高くないですね、なんて保護者に話す教員だっていかねません。

そんなことではないのです。どの本を借りようとしているか、その様子を見て、迷っている様子なら、「この本、○○くんが面白いっていってたよ」とか「君は、動物系の本が好きなんだね」とか「こんなに細かい字のも読めるようになったんだ」「君は読むのはあんまり好きじゃないみたいだね。こういう漫画も差し込んであるのは、興味ない?」だとか、そういう時間を作るべきで、それには、普段から子ども達とコミュニケーションを取りその子がどんな子であるかをもっと知る必要があるのです。

先生たちがあまりに子供を理解する時間を持てないような学校現場が先生から「真の指導する力」を奪い、その結果、子ども達の期待できる能力の向上に資することができていない、というのが、読解力が伸びない原因の一つであろうと、私は思っているのです。

ですので、やはり、学校の在り方、これは、現場で働く先生を絞めつけている上層部の評価の在り方、ひいては、市教育委員会が各学校へ課している評価の在り方、ひいてはその市への在り方を決めている県教育委員会の在り方にまで広がってくる話だと思うのです。なんとなく中央から県へはそれほど大きな縛りはない気がします。県が少し力を持っているのではないでしょうか。また、保護者も学校に対し、あまりに「お客様」な考えを持っている向きが多いように思います。学校が教育「サービス」を提供する場だと勘違いしている保護者はいます。ひどいケースがモンスターと言われる苦情を寄せる保護者でしょう。ただし、やはり学校の在り方を考えるのは組織の在り方ではないでしょうか。

私が最も懸念するのは市の教育委員会です。この組織にいる人員の認識良識見識がまさに学校への影響力が高い。その市の教育委員会の見識を高めることこそ、学校教育の現場を助けるのだと思います。もちろん。校長以下現場の先生方の資質が一番必要です。子供を守るために、子供の健やかな成長のために、何をするべきか、私も考えていきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?