お盆だ。52歳だ。自分をだらだら振り返っています② 精神とか障がいを考えた出来事→これも長いです💦

さて、私自身は精神を大きく害することなくここまで人生を歩ませてこれました。身体的なハンディキャップも持たずにいます。その中で精神的な困難、身体の障がいについて考えたことを振り返ります。

まずは何をおいても母の妹の叔母さんのことです。おばちゃんは生まれながらに片目が白眼でした。母さんの出身は山形県で、昭和13年生まれです。生まれた頃は、名家だったそうですがおじいちゃんが家を没落させたそうです。そして、大変貧しい幼少期少年期を過ごし、中学を卒業してから、いつのタイミングかわからないけど、岐阜へ姉を頼ってやってきたそうです。おばちゃんもそのタイミングなのか、遅れてなのかは分からないけど岐阜にやってきました。

私がおばちゃんを覚えているのは私の幼少期の頃です。おばちゃんは子どもがなく、母の姉の子と私の兄と私という3人の甥姪がかわいくて仕方がないという感じでした。とりわけ、私は唯一の女の子なので、かわいかったんじゃないかなーって、思います。何歳のときだったか、ドナルドダックの大きいぬいぐるみをプレゼントしてくれたのが、私には忘れられない思い出で、本当に私を喜ばせたいという思いが溢れている人でした。

おばちゃんは母が言うには白眼だったことが人生の苦難を味合わせたようです。私の知っているおばちゃんの旦那さんは二番目の結婚相手だったようで、先に結婚していた人はいわゆるDV系の人だったと。その後のおじさん、私から見て、あまり女性の幸せになる感じの方には見えなかったです。ここからは私の妄想だから、おばちゃんの真実ではないかもしれないけど、姪っ子の私から見ておばちゃん像は「白眼という障がいの為に幸せな人生を歩めない気の毒な人生」というように思えてしまっていました。経済的にも裕福ではなく、また、おじさんも扱いが難しく、こういう人生は嫌だな、と思ってしまうような。

母さんが私が生まれるまでのエピソードで語るには、妊娠中はお腹に手鏡をお守りで巻いていたそうです。(私も自分の妊娠中、その手鏡をお守りにしていました。)「五体満足で生まれますように」と。

人間の優性思想にも関わる根深い、ほんとに自分にいつも問わないといけない思想だと思っています。でも、おばちゃんを通して私の母も思い、私もまたそう思ったのでした。そんな思いを持つことすら罪の意識を抱いてしまします。人間の悪魔のような思いを自身に持っているということを自覚するために、それを戒めとする、常に自分に問わないといけない、私はそういう人物だと思います。

おばちゃんを通して、私は何を学んでいるのでしょうか。自分の人生のわきにはいつもおばちゃんがいるのです。不思議なくらい。おばちゃんという存在が私になにか、考える土台をくれています。

さて、次に。精神のことは、というと、おばあちゃん(義母)が老人性うつになった出来事です。私はおばあちゃんとはとっても気が合って、むしろ実母より感覚が合うなーと思い、同居生活もとても楽しく過ごしていました。私は本当に、根っからそう思っていたのですが、もしかしたらおばあちゃんは相当遠慮していたのかもしれないです。

娘が2~3歳の時に、私は自分で経済力を付けたいと思って、ネットワークのエステを本業にしてみようと動き出しました。本当は家で内職程度のエステをやろうと思っていたのですが、勉強仲間から紹介された化粧品の質が良くて、それを取り扱おうとしたらビジネスモデルがネットワークだったんですね。連鎖販売商法は、世間的に「ねずみ講」といわれたり、私が20代前半の時にも日用品の連鎖販売の手法がかなり強引でダーティな印象でしたが、私が知った化粧品は、品質もよく、伝え方が違法でなければ、販売手法として合法的なわけだから問題ないな、と取り組んでみようと思ったのです。

先に書いたように本当は家庭生活を維持しながら経済的に支えるのを目的として、家庭でエステをやりたくて始めたんですが、ビジネスモデル的に経済をあげるためにはマネージャーや販社を目指すシステムでした。(これはどこでも当たり前ですけどね)それで、家庭生活と経済を両立する、という当初の目的から、「女性が経済的に自立する」ということを目的に挑戦することにしたのです。

そうすると、お話し会やエステ会、会合など、あちこちに出向かないといけなくなりました。そして、その会社は、痩身プログラムもあってコンテストもあったんですね。それで、販社を目指そうと思ったのでそのコンテストにクラアントさんに出場してもらうことにして、その施術を熱心にしました。クライアントさんも仕事をされていたので、痩身施術をするのに、夜に我が家にきてもらって2時間施術するとか、週に3度するとか。家庭生活を維持しながら経済力を付けたい、という本来の目的から、行動がまったく180度反対を向いてしまったんですね。

私が外に出ないといけないとき、施術で疲れてしまったときの家庭生活はおばあちゃんにお願いし始めてしまったんです。おばあちゃんは、もともと高齢で夫を出産していたし、私と夫とは年齢差7歳もあるので、その当時80歳を超えていました。でも、元気でね。動きはお年寄りだけど、感性は若いし家事も私は十分に頼れると思ったからおばあちゃんに頼っていたんです。あとは、3歳の娘の守りもおばあちゃんに安心して頼めると思っていたからこうやって販社を目指す方向へ加速してしまったんです。

ところが、実はそれがおばあちゃんを不安にさせていたと後でわかりました。年齢を重ねていく不安感、肉体の衰え、家庭を顧みずに仕事に打ち込んでいる=息子をないがしろにしている→息子夫婦の不穏を感じている、などということを40歳そこそこの私は思い至ることはできなかったんです。生活を回すために人というのはピースとしてしか見れていなかったんですね。販社になるためには、九州の本社の会合に出なければならない、ということになった時、これで一本立ちすると決めてやっている以上、行くしかないと思い夫に相談(という名の、宣言)し、その留守番をおばあちゃんに頼む段取りをつけ、飛行機のチケットも取ったのでした。

ただ、そのあとの展開はひっくり返りまして。ちゃーんと大いなるものの采配というのか、すべてはメッセージなんだなぁと思います。神様は必要な出来事を用意するというか、うまくできているんだなぁと思います。いざ翌日に九州へ、という日に娘が発熱しました。娘を通してこの展開(家庭より販社を目指すという生き方)にストップをかけられたのでした。

いろいろと向こうみずな私ですが、さすがに3歳の娘の発熱をおいて家を不在にすることはできません。当時はまだ子どもに現れることが親へのメッセージという思いには至っていないので、単純に幼子の病気を押していけない、という事でしたが、娘から「行かないで」だとか「自分をもっと見て欲しい」とかの表現が発熱だったのでしょう。ぷらす、おばあちゃんの小さい子どもをおいて母親が二日家を空けることへの不信感が発熱を通して私を引き留めることになったのかと思います。

えっと、これも前段がながくなりましたが、この九州出張&娘の発熱ということでおばあちゃんの緊張のピークが到達してしまったようなのです。言えなかったけど、おばあちゃんは私のあちこち出かけること、予定の組み方、あわただしさ、これらに実は対応が難しくなってきていたのでした。お年寄りにはお年寄りの生活のスピードがあったんだ、と後でわかりました。私はまだ40歳過ぎたところで、元気の盛り。新しいことに挑戦してウキウキ上昇気分でいました。思考のスピード、物事を捉える柔軟性も年齢とともに低下していく、ということに思い至らなかったのです。

その出来事を境に、おばあちゃんに不穏な様子がでてきました。いえ、本当はたまーに、「私じゃ間に合わない」と自己卑下するセリフはあったんです。でも、それは、おばあちゃんの自分を下にした常套句だと思っていたので気にしていなかったのですが、どんどんその「自分は間に合わない」ということを口にするようになり自分の部屋が整頓されていなくてこの先どうしていいのか分からないとか、自分はお荷物だとか、このまま死んだらどうなるんだろうとか。頻繁に発するようになりました。

最初は、「おばあちゃん、そんなこと心配しなくていいよ、なにも困っていないよ」とか「私たち夫婦がちゃんといるからなにも心配いらないよ」と答えていたのですが、その頻度が増して、言っても言っても自己卑下のセリフが続くと今度は、「私に何をいってもらいたいの?」とか、「私がおばあちゃんにさせていることを本当は憎くて遠回りに批判しているの?」とか、おばあちゃんのセリフに私もイライラするようになりました。

夫にも「一体、おばあちゃん、どういうつもりなの!?」とか、「あなたからも言って!」とか。九州事件は9月の初旬のことだったのですが、もう10月に入るころには、おばあちゃんの焦燥行動が現れてきて、さすがの私もこれは、何か様子がおかしいと分かってきました。夫とも話し、おばあちゃんの心を落ち着いてもらおうと、解決できないかと、心療内科を受診に行きました。まあ、そこではなんの成果もなかったどころか、心療内科っていうのは、まったく精神のことには機能しないという判断だけはできました。

その後、おばあちゃんの精神の混乱は本当に、坂を転がるように悪化していきました。

みるみるおばあちゃんはやつれていき、不穏になり、焦燥行動は激しくなり、だんだん、気がふれるんじゃないか、という行動が頻発してきました。もはや精神病の様相になり、このままでは今度は私の精神が参ってしまう、と夫は思ったそうです。私自身も、これは危険だと思いました。そこで、今度は岐阜の精神科病院を受診することにし、過程は割愛しますが、最終的には緊急入院をしてもらい、その後、退院後は、自宅に戻らずグループホームに入居してもらう、というおばあちゃんの生活環境を大きく変えることになってしまったのです。

当時は、このままでは不安と焦燥で食べることもできなくなってしまったおばあちゃんであり、焦燥で行動制御できないフリーズしてしまうことで失禁がはじまったりしておばあちゃんが狂ってしまう、精神破綻してしまって廃人になってしまうのでは、という恐れが一番でした。それをなんとしても回避したいという思いで入院してもらったのです。私たち夫婦はおばあちゃんは認知障害になった、と思っていたのですが、診断では老人性うつ、ということで、入院病棟はお年寄り認知専門ではなく、一般の精神疾患病棟ということでした。

これもまた、本当に苦しかったです。もはや82~3歳になるおばあちゃんを若い男性、女性の精神困難の方々が多い、どちらかというと収容的な入院病棟に押し込めてしまうことになってしまったのでした。ただ、夫が、家庭生活を守るためということで苦渋の決断でそれを認めてくれたのが本当に感謝です。入ってくれたおばあちゃんにも本当に感謝です。

その緊急措置入院はそれほど長くすることなく、おばあちゃん自身を取り戻すのに、他者がいる方がおばあちゃんは人の目を気にする人だったので、その方が自分を保っていられるという判断からグループホームを選択したのですが、このホームの管理者さんも本当に理解のある素晴らしい方で、こちらの意向、おばあちゃんの人間性を大事にしてくださったので、生活拠点の移行も大きな混乱なく行え、その後9年、おばあちゃんはこのホームで安寧な時間を過ごす事が出来ました。もちろん、本当は家庭で過ごしたいに違いなかったので、おばあちゃんには感謝でしかありません。

私が初めて自分で認識した精神は破綻するかもしれないという出来事はおばあちゃんに見せてもらいました。本当にすごい転落の仕方で、「廃人」という言葉しか浮かばなかったのです。なんとしてもおばあちゃんをそんな状態にさせたくないと思ったし、自分も自分に関わる人もそういう状態にしてはいけない、精神の破綻だけは、取り戻せない、という思いになりました。なので、その後も夫には、何があっても精神が参ってしまうようなことがあれば絶対にそこから逃げて欲しいと言っていました。つまり、仕事のことですけど。仕事は変わっても命は消えないけど、精神が参ってしまうと=命が消えることになってしまう、というのが私の思いになりました。それほど、精神というものが人間の根幹なんだ、ということを知った初めての出来事だったのです。

半面、40歳になるまでその精神によって人間がどうあるか、ということを知らずに過ごせたというのは、やはり私は恵まれていたというか、うぶだったというか。それくらい精神世界について無知でいました。



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