Solitude


 この世界には星の数ほど男がいるというけれど、私にとっての男は一人しかいない。
 トランクに荷物を詰め込みながら、私ははじめて相沢さんと会った日のことを思い出す。

1年前、自然環境保護の集中講義に相沢さんは講師として現れた。彼は主に昆虫の写真を撮る自然写真家で、年に一度の集中講義以外の大半は珍しい昆虫を求めて世界中を旅していた。
 講義初日、チャイムがなったあと少し遅れて登場した相沢さんを見た瞬間、私の中でパチリと音がした。私を構成するパズルの最後の1ピースがはまる音。完全になった私は初めて、自分が今まで不完全だったことを知った。
美しく伸びた背骨と教室の後ろまでまっすぐに届く声。相沢さんの日焼けした肌に寄り添うように注ぐ陽の光は柔らかく、彼の周りだけ時が止まっているように見えた。
 4日間の集中講義が終わった日、私はその足で大学に休学届を出し、相沢さんの後を追った。振り返る彼に有無を言わさぬ迫力で、半年間だけ付き人にしてほしいと懇願した。写真家になりたいとずっと思っていた、カメラの知識も体力も自信があるし足手まといには決してならない、むしろお役にたてると思うと、私は嘘八百を早口にまくしたてた。
 最初は困惑していた相沢さんも、最終的にはこの子には何を言っても無駄だと悟ったのだろう。しぶしぶと首を縦に振ってくれた。

 その日から私は毎日図書館に通い、昼も夜もなく様々な書籍を読み漁った。昆虫やカメラについて、私には学ぶべきことが山ほどあった。私はただ相沢さんの邪魔をしたくなかったし気が利く助手だと思われたかったし、そしてあわよくば少しでも、私のことを好きになってほしかった。

 自然写真家の仕事は、いつ始まっていつ終わるという見通しが立つものではなく天候や運に左右されるため、その半年間は想像以上に過酷なものとなった。
 ブラジルでは車で川を渡るつもりが増水してしまい、現地の人が軽い口調で「歩けば大丈夫だ」と言うから一時間ぐらいかと思って歩き始め、結局10時間以上かかったこともある。

   ペルーでは機材が入っている車ごと盗まれた。途方に暮れて手ぶらで宿まで帰る途中、私たちの頭上を200頭以上の蝶が舞っていた。万華鏡の中にいるような錯覚を覚えながら、私は手元にカメラがないことを残念に思った。同じく悔しい思いをしているだろうと相沢さんを見ると、彼はただ上を見上げてにこにことしていて、なんだか私まで幸せな気持ちになった。私たちはその場であおむけに寝転んで、しばらくその幻のように美しい宴をただただ眺めていた。
 私たちは毎日美しいものでお腹をいっぱいにして、へとへとになって泥のように眠った。
 相沢さんの前を蝶が舞うとき、彼は必ず、我を忘れたように息をのむ。そして少し経ってから私の存在を思い出し、こちらを振り返ってふわりと笑う。相沢さんが私にむかって微笑むとき、私はスノードームみたいにすっぽりとそのまま、彼と一緒に閉じ込められたいと思う。完全に閉ざされた世界で、永遠と向かいあって浮かんだり沈んだりしていたいと願う。
 相沢さんの一挙手一投足がいちいち私を捉えて離さない。私はそのたびに心臓を素手でぎゅっと鷲掴みにされたような衝撃を受け、身動きできなくなってしまう。これを罪といわずなにを罪というのだろう。私は彼の罪に対する罰として、こっそりと切実に、彼を愛した。


 僕は一年の大半を国外で過ごす。自然写真家の中には日本に活動拠点を置く者も多いが、僕の求めている色鮮やかな昆虫は南米等の国外に生息することが多い。
 この世界には信じられないくらい美しい昆虫が存在する。彼らは不特定多数から愛されるために煌びやかに着飾ったどんなアイドルよりもずっと美しく、独創的だ。僕は幼少期から彼らに魅了され続けてきた。彼らが僕の視界に入ってきて給水したり小刻みに羽を震わせて飛んだりする姿を見ると、僕はその神秘性に心を揺らす。捉えようとしても完全には捉えきれないその一瞬を、それでも追いかけ、閉じ込めようと躍起になる。そんなときの自分はとても無力で、途方もなく幸福だ。
 彼らは非常に繊細で人の気配で逃げてしまうため、僕は息をつめ、彼らの動きを止めないように音を立てず近づいていく。シャッターを切る瞬間、僕は彼らの強さ、儚さをひとかけらも零さないよう、フィルターに生の彼らを焼き付けることに全神経を集中させる。
 シャッターを切る瞬間、私の存在は消え、僕はどこにもいなくなる。

 旅立つ前の妻の姿を思い出す。長期間旅立つときは妻が僕の安全を祈る。切実に、挑むような眼差しで。いってらっしゃい、どうか御無事で。そう言って送り出す妻の瞳が僕を責める。
 アナタハダレモ アイセナイ

 思いを断ち切るようにシャッターを切る。薄暗い林の中で、地上すれすれをムラサキスカシジャノメ蝶が舞う。ガラスのように透き通った翅は薄暗いジャングルの中では見えにくく、紫の班だけがちかちかと、燃えるように揺れる。僕はまた、圧倒的な被写体の前で無力になり、この世界からいなくなる。


 ぬるく湿った土の上に私はトランクを広げる。中には一週間分の水と食糧、そして一冊の昆虫図鑑。そのうちこれらの物も要らなくなる。私には翅が生え、飛べるようになるのだから。お腹がすいたら花の蜜を吸って生きていくのだから。
 人が人を変えることはできない。簡単に染まるような己なら初めから持っていないも同じこと。誰かを思い通りにしようと画策するぐらいなら自分が変わってしまったほうが手っ取り早い。相沢さんは昆虫を愛している。たぶん彼の奥さんよりも、そして、彼自身よりも。私は相沢さんに私を好きになってもらうことは諦めて、その代りに彼の方から私を見つけ出してくれるよう、蝶になることに決めた。
 一度決断したらその決断が至極妥当なもののように思えて、心がさあと晴れ渡った。私は湿った土の上に寝そべって上機嫌に鼻歌を歌う。ジムノぺディ。

 トランクから昆虫図鑑を取りだして、スカシジャノメ蝶の体の構造をじっくりと観察する。神様が丹精込めて作り上げた上出来なレースみたいだ。繊細なその体つきに思わずため息が漏れる。私はベニスカシジャノメ蝶になることに決めた。透ける紅色が、心臓の燃える色が、今の私みたいだから。

 飛べるようになるには大胸筋を20倍程度に増強し体重を軽くし、肺活量を10倍程度にする必要がある。しかし万が一その通りの体になったとしてもこれでは単なる鳥もどき人間であり、私が求めているものとは違う。結局理屈ではなく意志の問題なのだ。私のこの体も小さな原子の塊に過ぎず、自由自在に形を変えることだって不可能ではないはずだ。


 このジャングルに入ってから、もう何日経つだろう。幾度となく日が昇り沈んでいくその繰り返しの中で、私はひたすら蝶になる訓練を続け、眠くなったら寝た。体中が傷だらけになっても、薄暗いジャングルの中でも、悲しくも怖くもなかった。相沢さんとの旅で、怖い思いをするのはたいてい都会だった。置き引きや強盗、人が一番怖かった。そのてん森の中は安全だ。誰かの悪意に突如足をすくわれることもない。
 トランクに詰めてきた食料は底をついたが、ひもじくはなかった。最近の私はところどころ体が透けはじめ、太ももの辺りはほんのりと紅色に色づいてきた。お腹がすくと私は花の蜜を吸い、相沢さんのことを想った。

 相沢さんと出会わなければもっとまともな生活を送り、平穏な人生を生きたであろう。職場で出会った優しい人と恋におち、結婚して子を産み、子供の反抗期に悩みながらも毎年結婚記念日にはケーキでお祝いしあうような、ありきたりで普通の、幸せな日々。相沢さんを知ってしまった今では不幸としか思えない日々。
 不完全なパズルのままでいることはできなくなった。1ピース足りないことを知りながら幸せなふりをすることができなくなった。
 今の私は何の勝算もなくただ相沢さんに会いたい一心で一世一代の賭けに出ている。これから自分がどうなってしまうのか正直わからないけれど、私は今、不安どころがむしろ清々しい。誰かを本当に好きになると、息を吸って風が頬を撫でるだけで充足を感じられる。見返りなんて必要ない。
 私は一生の中に一瞬があるのではなく一瞬の中に一生があるのだと思っている。誰かを心から愛するとき、その一瞬が一生になり、人生が完結する。毎瞬毎瞬笑っちゃうぐらい真剣に相沢さんを求めている私は、もう十分すぎるぐらい何度も人生を繰り返している。恐れることはなにもない。


 僕は物心ついたときから自然写真家になろうと決めていた。繰り返される両親の喧嘩の声に耳を塞ぎながら、昆虫図鑑のページを一枚一枚めくる。そうすると不思議なことに、ざわついた心がそろりと落ち着いた。祖父が買ってくれた一冊の昆虫図鑑が僕の子守歌だった。
 僕が住んでいた小諸にもフタスジ蝶やヒョウモン蝶がよくいたが、図鑑には見たこともない蝶や虫がたくさんいて、その日本らしからぬ色彩にただただ圧倒された。特に魅了されたのはスカシジャノメ族のページだった。南米に生息するガラスのような透明な翅を持ったスカシジャノメ蝶は、後翅に紅色や紫色のぼかしが入っていて、明け方近くに暗い森の中を飛んでいるときはまるで花弁が飛んでいるように見えるという。少年心にそれは幻想的に訴えかけてきて、僕は一度でいいからこの目で、その悪魔のように魅惑的な生き物を見てみたいと思った。
 

 いくつの夜を超えただろう。私は10回に1回ぐらい飛べるようになってきた。正確に言うとジャンプしたときの滞在期間が長くなってきた。これからの努力次第では完全に飛ぶことも可能だろう。技術的に飛ぼうと意識する時はたいてい失敗してしまうが、なにも考えず、ただ相沢さんのことを考えるとき、私の体は軽くなり、風を踏むような感覚が増した。私の体はだいぶ透けてきて、月の光が透けた部分を通過して地面に柔らかく染み込んだ。
 明け方近く、夢を見た。薄暗く湿度の高いこのジャングルで、私は地面すれすれをゆらゆらと、たゆたうように舞っていた。ガラスのような私の翅は薄暗がりに紛れ込み、紅色の班だけがぼうと浮かび上がる。夜明けのジャングルに舞う花弁のように、私は揺れる。シャッターを切る音に振り向くと、擦り切れたジーンズに色あせたTシャツ姿の相沢さんがそこにいて、少年のようにまっすぐな眼差しで私を射抜く。私はまたしても心臓を鷲掴みにされ、泣き出したいほどの多幸感に包まれながら、彼に気付かないふりをしてゆらりゆらりと舞う。


 湿った土を踏みしめながら薄暗い林の中を進む。
 僕の目の前を1頭の蝶が通る。なぜか懐かしいような、知っているような気分になる。何も考えられなくなって、僕は気配を消すことも忘れ、ただ阿呆みたいにふらふらと後を追う。普通なら逃げてしまうはずのその蝶は、逃げない。それどころか僕を手招きするようにひらひらと、前を進む。
 その蝶を追ううちに、ぽつりと僕の腕に温かいものが落ちてきて、急な雨かと思う。空を見上げると木々の間から零れる曇りのない月の光。僕は頬をさすり、はじめて自分が泣いていることに気づく。
 涙に誘導されるように、頭の中をぐるぐると映像がまわる。僕はその時、なぜかある女の子のことを思い出していた。半年間だけ助手をしてくれていた女の子。いつも切羽詰まったような逃げ道のない瞳で僕を見つめてきた女の子。
 彼女は狼の遠吠えが聞こえる不気味な森の中でも平気な顔をしてついてきた。まるで僕といればいかなる恐ろしいことも襲ってこないと信じきっている幼い子供のように。私は妻一人ですら持て余しているような男だから、彼女の無防備な姿を見ると少し恐ろしくなった。まるで彼女には大切にするべき過去も未来に対する希望もなく、ただその小さな体に今だけをめいっぱい詰め込んでいるように見えたから。
 
その蝶は真剣に、切羽詰まったように舞う。僕に気付いていないふりをして、僕を意識しながら飛ぶ。進んでいって、その蝶を両手に乗せた。頬から連綿とつたい落ちる生ぬるい滴に、彼女の透明な体はガラスのように重く光り、ますます怪しさを増した。
 愛している、大好きと言ってくれた両親は、離婚をきっかけに僕を祖父と祖母に押し付けた。愛しているなんて簡単に覆ることを知った。できない約束ならしてほしくなかったし、いずれ要らなくなるのなら最初から愛してほしくなかった。僕は裏切られるのが怖くなった。無条件に人を愛することができなくなった。
 逃げない蝶を手のひらでそっと包みこみながら思う。でも違ったのかもしれないな。誰かを完全に好きになることは、傷つかないことなのかもしれないな。
 どうしてか自分でもわからないけれど、涙がとめどなく溢れる。そのうち本物の雨が降ってきて、世界が少しずつ湿っていく音に鼓膜が震える。
小さいころから雨が好きだった。傘の中はあたたかい孤独に満ちていて、雨音が大きくなるにつれて不思議に増していく静寂に、強く守られているような気がした。今も雨の中で、ジャングルという巨大な傘をさした僕の世界が心地よい静寂に包まれる。

 家に帰ったら逃げないで、妻にいつもありがとうと言ってみようか。彼女はきっと驚くだろうな。
 今まで大変だと思っていたことが、今この瞬間はとても簡単なことのように思える。だいそれたことだと思っていたことが吹けば飛ぶような些細なことのように感じられる。
 僕はぐしょぐしょになった土の上で堪えきれずくすくすと笑い、大の字になる。手を広げると蝶がふわりと宙に浮かびあがり、僕の顔の上で微笑みかけるように柔らかく舞う。
 鱗粉が雨に濡れて、ぞっとするほど美しく光った。


 コロンビアの林の中で、女性の遺体が発見された。遺体は半年前に行方不明になっていた20代前半の日本人女性のものと思われる。不思議なことに女性の遺体はところどころ透けていて腐敗が進んでおらず、詳しい死亡時期は不明である。
                                終わり

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