指先に触れるもの 18

 彼女は一つ一つの残された過去の間を泳ぐように歩き、時折、涙を堪えるように眉根を寄せた。岩肌を穿つ弾痕にそっと触れ、その深さを確かめるように指を這わせる。その姿が泰之の中で強い印象を残した。
 この場では、どれだけの命が散ったのか。彼らはどんな感情を残して逝ったのか。
 彼の中でそっと浮上する思いに答える声はない。当時の記録を当たったところで、そこには数字と淡々と出来事だけが列記されているばかり。この場で亡くなった者達の想いの記録まではどこにも残されていないのだ。
 それでも彼は、命を散らした者達の最期の想いを想像する。目を閉じ、微かな風の流れから時を感じて。
(怖いとか痛いとか、苦しい、悔しい、淋しい……? それとも誇らしかった? ………違う。きっとそんな事じゃない。そうじゃなくて………)
 答えのあるようでない想像は、彼の中に虚無を誘い込もうとする。それを拒否するように強く頭を振り、泰之は岩壁の傍にしゃがみこんだ幸恵の元へと足を向けた。
 彼女は白いワンピースに下草が戯れるのも構わず、膝を抱えている姿が見える。そっと緑の絨毯に覆われた地面に触れ、そこに今でも残っている感情を読み取ろうとするように目を伏せていた。
 歩み寄る泰之に気付き、幸恵はゆっくりと微かに涙の浮かぶ目を上げる。その表情の切なさに、彼は胸を突かれたような息苦しさを覚えた。
 小さな沈黙が生まれる。他の観光客の声が遠退き、空気が痛い程張り詰めた。
「ごめんなさい。私ばかり………。次の場所へ連れて行ってください」
 沈黙を破ったのは、幸恵の静かな謝罪の言葉。零れそうになる涙を細い指先で拭い、ゆっくりと立ち上がった。
「俺は別にまだここにいても良いですよ? 急ぐ予定じゃないし」
 小さく笑みを返し、泰之は頷いてみせる。しかし幸恵は柔らかく頭を振ると彼を促した。
「いいえ。ここはもう十分です。次へ連れて行ってください」
 やんわりと。けれどどこか逸る色を微かに滲ませ、彼女は泰之の目を真っ直ぐに見詰める。それならば、と頷き返し、泰之は先に立って踵を返した。
 駐車場へと向かいながら、彼は奇妙な確信が胸に浮かぶのを感じていた。

   24

 申し合わせたように言葉なくラストコマンドポストを離れた二人は、スーサイドクリフ、自決の丘と呼ばれるマッピ山北面の崖へと到着した。
 そこは今、マッピ岬同様に慰霊碑のある平和記念公園となっている。建てられた慰霊碑にはこの地での戦闘の悲惨さ、鎮魂の言葉、そして恒久的な平和を望む文言が刻まれているものが多く見受けられた。
 他の観光客が作り出す人の気配とは別に、泰之は耳の奥が痛くなるような沈黙と胸を圧迫するような虚無を感じる。ラストコマンドポストで感じた確信が、その輪郭を僅かに現したかのように更に強くなった。
 ここでも幸恵は先程と同様、目を伏せて様々な場所に触れ、そこに残る想いを感じ取ろうとしているように見える。そんな彼女の痛々しい程に儚く見えるその背中から、彼は視線を逸らした。
 幸恵のその行動と似たものを、泰之はどこかで見た覚えがある。どこで見たものであったか、そっと記憶を辿った彼は不意に思い当たった。
 それは彼が高校の夏休み。昼下がりのリビングで惰性のように点けていたテレビで流れていた映像だ。そこには戦争で、当時まだ幼かった我が子を亡くしたという老女の姿があった。彼女は我が子の亡くなった場所を幾度も幾度も撫でながら、
「あの時自分だけが生き残ってしまった」
「どうにか助けたかったがどうすることもできなかった」
「どうか赦して欲しい」
 と。そう泣きながら謝り続けていた。
 その老女の姿と今の幸恵の姿が、泰之にはどうしても重なって見える。泣き疲れた後の虚無のようなものを彼女から感じるのだ。誰か、身内をこの地で亡くしているのかも知れない。
(だとしたら………。やっぱ辛い、よな)
 緩く頭を振り、泰之はかつて数多の人々がその命を投げ打った断崖へと足を向けた。手すりに凭れ視線を伏せれば、昨日彼が訪れたマッピ岬とその先に広がる海原が真っ先に目に入る。

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