指先に触れるもの 20

   26

「ここは………主人の最期の場所なんです。そう、あれは大東亜戦争の末期、どこもかしこも狂っていた時代のことです」
 悼みの滲む声音で語りだした彼女の言葉に、泰之は目を見開いた。反射的に彼女の顔を振り返る。その視線を真正面から受け止め、幸恵は彼の目に浮かぶ困惑と問いを視線で促した。
「あの……大東亜戦争、って………太平洋戦争のこと、ですよね? 主人って………。だって、堀本さん………?」
 泰之の困惑した言葉に儚い笑みを浮かべ、幸恵ははっきりと頷き返す。
「ええ、そうです。太平洋戦争のことですよ。主人は、まだ本当に日本が勝っていた頃。お国の為にと出征したんです。………あの時は本当に嬉しかった。祝言を挙げてたった一月のことでしたけど、あの人の晴れ姿は眩しくて。誉れの家と言われるのが嬉しくて。凛とした横顔を今でもはっきりと覚えています。忘れた頃に届く手紙もとてもやさしくて………どんなに辛いことがあっても、それだけを頼りに待つことができたんです」
 笑みを深め、彼女は幸せそうに吐息した。しかし、その表情はすぐに悲しみの色にとって代わられる。
「けれどね、北里さん。あの人からの手紙が急に途絶えたんですよ。あれは、ここへの派遣が決まった頃なのかしらね? ぱたりと手紙が途絶えて………。それから二月なんて経ったかしら? あの人からの手紙の代わりに届いたのは、戦死の通知だったんですよ」
「え………?」
 幸恵の言葉に刺激されたかのように、不意に泰之の脳裏に夢の断片が浮上した。それはあの、家族近所総出で見送る華々しい出征の一幕と、間に合わせのような仏壇の前で戦死通知を抱きしめ、泣く自分を責める女の姿だった。
 瞬きも忘れて幸恵を見詰める泰之に、彼女は儚い笑みを返す。ゆっくりと瞬き、泰之に問いを向けた。
「北里さんのおじいさまは、孝造さんとおっしゃるのかしら?」
 突然出た祖父の名に、泰之は混乱する。その様子から答えを見て取り、幸恵は更に言葉を続けた。
「主人と孝造さんは、同じ部隊にいて唯一無二の戦友だとよく手紙にありました。私語の許される時間には、孝造さんは嬉しそうに笑いながら奥さまやお子さんの自慢話をされていたとか。私達夫婦にはまだ子がいませんでしたから、主人はたいそう羨ましがっていたんですよ」
 幸恵の口から語られるその言葉は、泰之の知らない姿。いつであったか叔父叔母から以前は、孝造が良く笑う明るい人物だったという話を聞いたことがあった。混乱した頭でぼんやりとそんなことを思い、泰之は微かに頷いた。
「戦死の通知が届いてすぐ、日本は戦争に負けて全てが終わってしまった………。私は抜け殻のようになってしまって。それでもあの人が自分の命と引き換えに守ろうとしてくれた命と思うと、自分から死ぬこともできなくて………。義父母も再婚を勧めてくれたんですけど、私がそんなことは考えられなくて結局全て断ってしまったんです」
 一息に語り、幸恵はそっと目を伏せる。その唇に浮かぶ笑みはなにを含んだものか。思い切るようにゆっくりと顔を上げた彼女は、泰之と再び視線を合わせた。泰之の中でなにかがかちりと音を立てて嵌ったような気がする。幸恵が言葉を続けた。
「終戦から三十年して、孝造さんからあの人の最期を手紙で教えていただいたんです。それはそれは長い手紙でした………」
 そう言って幸恵は、孝造の送ったという手紙の内容をゆっくりと語りだした………。

   27

 戦後三十年の時を経て、孝造は漸く重い腰を上げた。いや、その頃になってやっと幸恵の夫、勝司のことを語れるようになった、という方が正しいだろうか。それ程に当時の状況は悲惨なものだったのだ。
 サイパンに到着してすぐは、ここで自分達さえ踏ん張れば本土への攻撃を防げる、と信じていた。その為に派遣された部隊でもあったのだから。その為の備蓄も、確かにあると信じて疑うことは無かった。
 そんな状況が一変したのは実際に敵兵と対峙した、まさにその時。予想を遥かに超えた大艦隊が忽然と海に現れた。そして雨のように降り掛かる砲弾と、爆撃。味方の応戦も全く歯が立たなかった。

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