指先に触れるもの 12

   13
 
 部屋に戻った幸恵は、真っ直ぐに窓へと歩み寄りテラスへ出た。視界を埋めるのは眠りに就いたプールと広場、その奥に見える濃紺の海と白い光を冴え冴えと降らせる月だけ。両隣の部屋は沈黙があるばかりだ。
「………明日、貴方に会いに行きますね。勝司さん……」
 囁く声音で虚空に向けて言葉を紡ぐ。痛みと深い後悔が彼女の目を染めていた。布張りのカウチに歩み寄り、そっと腰を落とす。夜の景色に投げられた視線はしかし、それを見てはいなかった。まるで流れ去った時を見ているかのように潤んでいる。
 不意に、彼女の白い頬を一筋の涙が伝った。それが呼び水であるかのように止めどなく溢れ、透明に月の光を弾く。声を上げることなく涙を流す彼女の脳裏にはなにがあり、なにを見ているのか。傍目には窺い知れない深い後悔が、彼女を包んでいた。
「会いたい………」
 頬を伝う涙に誘われたか、震える唇から言葉が零れ落ちる。それは吐息か嗚咽か。彼女は痛みを堪えるように胸を押さえた。
「……ええ、貴方に会いたい………。あの時、引き止めていれば良かったんですね。きっと………。こんな後悔をするくらいならば、誰にどれほど責められても。それがどんなに辛いことでも。それでも、貴方に縋って引き止めていれば良かった………。貴方さえ傍にいてくれたら、どんなことでも耐えられたのに」
 零すことのできない嗚咽のように言葉を紡ぎ、彼女はきつく目を閉じる。溢れる涙は透明で、それが余計、彼女を儚くさせた。月だけが見詰める彼女の姿は、今にも消えてしまいそうな程に弱々しく頼りない。
「あんなに早く貴方を亡くしてしまうと知っていたら。そうしたら私は………貴方を送り
出しはしなかったのに」
 カウチの上で膝を引き寄せ後悔を口にする彼女は、赦しを請うように膝に顔を埋めた。髪が肩から零れ落ち完全に彼女の表情を隠す。震える肩が落ち着くまで、まだ時間が掛かりそうだ。
 彼女の深い後悔を包むのは、冷たいほどに冴えた月の光だけだった。

   14

 シャワーを済ませた泰之は、体を引きずるようにベッドへと戻ってきた。鉛の服を着たように重い体をベッドへと放り込み、泰之は漸く深い息を吐く。思考を埋める様々なことに視界が霞み、意識がそのまま眠りへと落ちていきそうな感覚に恐怖が全身を捕らえていた。
(俺は………どうなる? これから。おかしくなってるのか………?)
 ぼんやりと頭を掠める言葉が、更に恐怖へ拍車を掛ける。既に自分では制御しきれなくなった思考は、止める手立てもないまま深い恐怖の沼に彼を飲み込んでいくばかりだ。
「………夕衣……」
 夕衣の名を呼び、泰之は長い溜め息を落とすとそのまま眠りに落ちていった。

   15

 遠くで、誰かが彼を呼ぶ声が低く響いていた。しかし彼の視界に人の姿はなく、あるのはただ深い霧ばかり。上下の感覚も曖昧になる恐怖に足が竦んだ。
 数十センチ先も見えない程の濃霧に目を凝らし、彼は声の主を探そうとするが声がするばかりでその姿を捉えることはできなかった。
(誰だ? 誰が呼んでる?)
 彼を呼ぶ声に聞き覚えがあるはずなのに、それが誰なのかどうしても思い出すことができない。恐怖の中に微かな苛立ちのシミが落ちた。彼を呼ぶ声は、抗いようのない力で彼を引き寄せようとするかのように変わらず続いている。
 それに誘われ、自然と彼の足が動き出した。一歩また一歩と、鈍重な動きながら彼はゆっくりと声のする方へと進んでいく。
 と、不意に彼はなにかに滑った。踏ん張る間もなく転んだ彼は、肌に触れる湿った感触に慌てて上体を起こす。無意識に頬に触れれば、湿った土とべっとりとした感触のものがあった。
「なんだ?」
 その声は自分のものとは思えない程震え、掠れていた。頬を擦り目の高さに手を上げると、そこには濃霧の中でもはっきりと土に混じって赤黒く変色したものが見て取れる。指先を擦り感触を確かめた泰之は、言葉にならない悲鳴を上げた。

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