秋の陽射し

 派手さも華やかさもない、素朴な田舎の原風景。視界は随分と近くに見える標高の低い山に切り取られ、山の手前には普段は大人しい清流が。そして、狭いながらも視界手前には畑と農道を拡張しただけのような町道、静寂を好む民家があるきりだ。
 秋特有の空は高く、冬のそれには及ばないながらも空気は澄んでいる。鮮やかな青に抱かれるヒトの営みは、けして溢れる程に物があるわけではない。しかし随分と穏やかに豊かに紡がれているように見えた。
 綿飴のような雲が柔らかく流れていく空の下。人々はその身を土地に、時に委ねて日々を積み重ねていた。

「戻るぞ」
「はい」
 無造作に言葉を投げた老境の男は、白髪の割合が増えた短髪を撫でる。それが彼の癖だ。ひとつの作業が終わり、一服入れようかというようなタイミングで彼は必ずそれをする。愛煙家であればちょっと一服、煙草を咥えるところなのだろうが、男は澄んだ青を見上げるに止め、背中を伸ばした。
 その言葉に視線を上げたのは、男の妻。彼女もまた随分と白髪の多い髪を後ろでひとつにまとめ、手ぬぐいをかぶっていた。彼女はこまごまとした農機具を入れた背負子付きのザルを軽トラックの荷台に載せた。
 申し合わせたように二人はドアを開け、運転席と助手席に収まる。けして座り心地が良いとは言えない硬いシートの感触を確かめるように定位置に収まると、こちらもまた少しばかり年の寄った軽トラックのエンジンを掛けた。一つ大きく震え、よいこらしょ、という調子で動き出した軽トラックは、あるかなしかの傾斜をなぞるようにのろのろと動きはじめる。
 長閑に幾分褪せた淡色絵の具を流したような景色の中、乾いたエンジン音は幾分賑やかに。しかしその速度はなんとも緩やかに。辛うじて舗装されているという程度の農道を自転車のような速度で進む。
 細くて軽い、子供でも簡単に回せてしまいそうな軽いハンドルに手を掛け、男は別段急ぐ様子もなく軽トラックと共に歩く。それに遅いと文句を言う事もなく、嫌な顔ひとつすることもなく彼女はにこにこと助手席に納まっていた。
「今日のお夕飯、どうしましょうかね。お父さん」
 問いを手渡しながら彼女は、男の答えをあまり期待していない。彼女にとっては答えよりも男と言葉を渡し合うことの方が大事なのだ。
「そうだな………」
 案の定、男は明確な答えを持たない。漸く小一時間程前に畑で弁当を食べたばかりだ。まだ夕食のリクエストまで気持ちが向いていない。それでも彼女はどこか嬉しそうに男に言葉を向ける毎日。
 そろそろ連れ添って五十年になる二人は、年に幾度か孫を連れて子供夫婦が揃って遊びに来る日がある。その時ばかりは年中の祭りを一度に執ったように家の中が賑やかになるのだ。しかしそれ以外は近所の茶飲み友達の声が柔らかく響く程度で、気配はどこまでも凪いでいる。
 その穏やかな気配を男と言葉少なに過ごすことが彼女の幸せの時。若い頃のように甲斐甲斐しく世話を焼くことはできないが、それでも気に掛けない瞬間はないと言える程だ。
「考えておく」
 愛想もなく響いた男の言葉に笑って頷き、彼女は緩い上り坂に差し掛かった景色に視線を戻す。荷台では時折跳ねる農具の音が楽しげに響いていた。
 それから待つ程もなく帰り着いた二人は、納屋も兼ねた車庫に軽トラックを停め、せっせと今日の収穫を抱えて家に向かう。鍵を掛けていなくても誰も気に留めないような土地柄。やはり全ての鍵は開いている。
 彼女は今日の収穫を抱えて土間の名残のある勝手場に向かい、男は家の裏の水道で畑仕事後の足を簡単に洗い流す。
 二人はそれぞれに都合を済ませると、習慣で茶の間に向かう。そこで男は新聞を広げ、彼女はそんな男を眺めながら緑茶をすするのだ。

 二人のどこか単調でありながら穏やかな時間は、砂時計の砂のように穏やかに降り積もっていく。くすぐったいような沈黙と、長年の習慣として身についたそれらを繰り返すことが彼らの幸せだった。
 そこに必要なものは穏やかな時間と、その日を過ごすに十分な収穫だけ。欲を張らず、かといって貧しくもない。山間の静かな農村には丁度良い小さな幸せだった。

#ショートストーリー

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