指先に触れるもの 14

 それは泰之の生きる現代においても変わらない法則なのだろうが、それでも今は情報を得ようとすればインターネットを通じていくらでも得ることができるのだ。今、彼の目の前にある過去のように、完全に国外からの情報を遮断することはそう簡単ではないだろう。
 ぼんやりとそんなことを意識の端で考え、泰之は目の前の光景から目を背けた。直視するにはあまりにも辛い光景のように感じられ、泰之は小さく頭を振る。
(この人達は知らない………。いや、知らされていない。日本がどうなるのか、どうなっているのかを………)
 胸中で溜め息を落とし彼は万歳を合唱するその声に背を向けた。
 不意に、その声が遠くなったような気がする。確かめるように泰之が目を開けると、そこは見たことのない家の中だった。
 部屋の隅に置かれた間に合わせのような小さな仏壇の前で、寝巻き代わりの着物を身に付けた女が声を殺して泣き崩れている。よく見れば、仏壇には旧字体で書かれた一枚の白茶けた紙が供えられていた。外から差し込む月の光程度では、内容までを見て取れないが彼女の泣き崩れる様子と時代から推測して戦死の通知だろうか。
 泣くことがそもそも罪だと言わんばかりに、彼女の背中が自責の気配を滲ませていた。時折大きく肩を震わせながら、それでも必死に声を押し殺すその姿に彼はきつく胸を締め付けられる。
(家族を亡くせば、そんな、時代なんか関係なく悲しいだろ? 普通……。なのになんで………?)
 泰之の胸中に漏れた疑問は当然のものだ。どのような時代であれ、親を、子を、伴侶を亡くせば誰であろうと悲しむのが道理。それが人間の素直な感情だろう。それを喜べと、国の為に尽くしたのだから喜ぶべきことだ、と。そう告げられるのはどれ程、残酷なことだろうか。
 必死に声を殺して泣いていた彼女は、やがて泣き疲れた様子でゆっくりと顔を上げた。仏壇へとにじり寄り、供えていた紙を震える指で取り上げると胸にそっと押し当て涙の残る声で謝罪の言葉を唇に触れさせる。
「……………ごめんなさい。私が泣いてはいけないですね。貴方は、お国の為に尽くされたのですから………。もう泣きません。だからどうか、こんな弱い私を赦してくださいね。………貴方があちらで恥を掻かないように、強く、なりますから……」
 途切れ途切れに謝罪を口にする彼女の背があまりにも痛々しく、彼はこの場にいることが苦しくなる。
 強くなるとはどういうことなのか。
 家族を亡くした者が泣くことをさして罪だというならば、本当の罪とはなんだというのか。
 彼女がこれから先。その生涯を閉じるまでの長い時間、なにを支えに生きていくというのか。
 胸中に渦巻く疑問は際限がなく、彼は謝罪の言葉を口にし続ける彼女から目を背けた。きつく目を閉じ、彼の前にある光景を否定しようとするように強く頭を振る。耳を塞ぎ目を背け、声の限りに喚き散らして全てを否定したい衝動に駆られる。
 そんな泰之の耳に、再びあの彼を呼ぶ声が聞こえてきた。砲撃の轟音も銃声も、必死に声を殺して泣いていた女の謝罪の声も、全てが遠退いている。
 声に誘われるようにそっと顔を上げると、そこは何十人という民間人が列を成す見晴らしの良い小高い場所だった。緩やかに動くその列は、最後の叫びを放り出し、先頭の者から断崖に向けて消えていく。
 あれ程目を凝らしても見えなかった声の主の姿が、その列の手前にあった。帽子を目深に被ったその旧日本軍の軍服を着た男は、傍らに同じようにして立つ男へ僅かに目配せする仕草をし、泰之に向けて進み出た。泰之まであと僅かというところまで近付き、足を止める。彼と視線を合わせるように膝を突いた。
 兵士を恐怖の滲む目で見詰め、彼は震える息を大きく吐き出す。
「泰之………。ここまでよく来てくれたな。偉いぞ」
 穏やかに告げる兵士の声に、泰之は震えながらゆっくりと頷いた。やはり、その声は確かに聞き覚えがある。兵士はゆっくりと言葉を続けた。
「あの人を、必ずここに連れてきてくれ。必ず、だ。お前ならできる。いや、お前にしかできない。あの人を、必ずここへ……。待っている。頼んだぞ」
 微笑んでいるかのような柔らかな口調。噛んで含めるように一音一音をはっきりと告げるその口調に、泰之は不意に祖父、孝造を思い出した。聞き覚えがあると思った声も、孝造のそれと同じであるように思える。

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