指先に触れるもの 8

「それなら、私もご一緒させて頂いても構いませんか?」
「え………?」
 女の思い掛けない言葉に一瞬真顔になった泰之は、まじまじと彼女の顔を見詰めた。彼女が同席することに抵抗があるわけではないが、返答に迷う。彼は一人での旅行であるが、彼女には同行者がいるはずだ。そうなれば部屋で待っているだろう同行者が心配をするのではないか。
「俺は構わないですよ、一人だし。でも貴女の方は一緒に来てる人、心配するんじゃ?」
 泰之の問いにけれど、彼女は首を横に振った。
「私も一人です。どうしても今、ここに来たかったので。ですからご心配なく」
 笑みの中にどこか淋しげな色を滲ませ、彼女はそう言い切る。その色に泰之は微かに引っかかるものを覚えるが、深く問うことを躊躇い頷くに止めた。
「それなら俺は」
「ありがとうございます」
 女が軽く頭を下げるのを見詰め、泰之は自分の行動に疑問を感じる。この旅行自体急なことであったし、なにより恋人の夕衣にさえ声を掛けずに出発した。その原因はなんであったのか。あの奇妙な夢に巻き込まない為ではなかったか。
 それにも関わらず、同じ日本人であるというだけで今こうしてこの見知らぬ女が食事に同席することを受け入れている。
(人恋しいとか………?)
 胸中に浮かんだ疑念に首を傾げるが、それ以外になにか彼の中で引っ掛かるものがあった。しかしそれは見えるようで見えない。はっきりしたなにか、が確かに彼の中にあるのに見極めることがどうしてもできなかった。
 急に黙り込み、首を傾げる泰之を女が心配そうに見詰める。
「どうかなさいましたか?」
 女の言葉に我に返り、彼は取り繕うように笑みを浮かべた。彼の腹は変わらず空腹を訴えて自己主張している。今は考えなければならない疑問は横に置き、先にこの空腹を満たすことに決めた。
「いや、大丈夫です。行きますか?」
「ええ」
 先に立って歩き出した泰之に続き、女が足を動かしはじめる。背中に彼女の気配を意識しながら、彼は目の前の目的の為にバーの扉へと真っ直ぐに向かった。

   10

 空いている席に落ち着き、泰之は早速とテーブルに置かれたメニューを広げる。彼らの他には今、一組のカップルらしき宿泊客が静かな会話を楽しんでいるばかりで、穏やかで静かな空間がそこにはあった。
 スタッフの説明によると、サイパンの法律により夜は十時までしかアルコール類を提供できないのだという。今の時間はつまみになる程度のメニューをいくつかとソフトドリンクだけという話しだが、泰之にはそれで十分だった。
 手早く自分の食事と女のソフトドリンクを注文し、出されたミネラルウォーターに手を伸ばす。
「なんか、すみません。俺に付き合ってもらっちゃったみたいで」
 泰之の言葉に緩く首を振り、女は笑みを返した。
「いいえ。私の方こそ無理にお願いしてしまったのではないですか?」
 申し訳なさそうに眉を下げる彼女に笑みを返し、泰之はグラスをテーブルに戻す。テーブルに置かれたキャンドルの灯が柔らかくグラスの縁に跳ねた。それを眺め、彼はゆっくりと言葉を唇に乗せる。
「それは大丈夫です。俺、嫌な時は嫌って言う性質なんで」
「ありがとうございます」
 彼の言葉に安心したように笑い、女はミネラルウォーターのグラスに手を伸ばした。
 柔らかな沈黙がテーブルに落ちる。それを彩るのはキャンドルの灯と別のテーブルから漏れ聞こえる会話の声、ボリュームを抑えたクラシックだ。漂ってくる食欲を刺激する匂いに、一人で食事の時間をせずに済んだ安堵が彼の意識に触れる。
 女の仕草をぼんやりと眺めながら、泰之は不意に彼女の名前を聞いていないことに気付いた。
「そうだ。もし迷惑じゃなかったら、名前教えてもらえますか?」

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