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高校生時代の私

 高校生時代の私、それはもう、激動の三年+2年でした。
まず、中学校とは違い、専門科目が入って来ます。
 マッサージや鍼灸の勉強の基礎は、まずは解剖学です。
 そして、あんま実技とマッサージの実技です。
 特に、解剖学は毎日ありました。
 そして、あんま実技とマッサージ実技は、交互に毎日ありました。
 親指で揉むわけですから、それはもう手がしっかりと腫れましたよ。
 我々はこれをしっかりと克服できないと、上手なマッサージ師にはなれません。とにかく、学年が上がるごとに、専門科目はどんどん増えて行きました。
 まあ、1年生の時には、要領がわからなくて、危なく留年になりそうなこともありましたが、それでも頑張っって、取り返しました。
 特に、一番やばかったのが、数学でした。
 普通の学校から来た先生でしたから、めちゃくちゃ難しく、特に、分数式では、点字では、分子から書きます。
それを先生が分ぼから読む訳ですから、分ぼと分子の境目がわからずに苦労しました。
特に、半分数式と呼ばれる式は、分母の中に分母と分子があり、分子の中にも、分母と分子があると言う式です。
でも、全盲の女の子がそれをしっかりとこなしていたんですよ。
いやあ、その彼女には脱帽でした。
 何事も要領なんですね。
 それをどうやって、いかに早く見つけ出すかですね。

高校生時代の大きな出来事、それは、父の死でした。
 あれは忘れもしません.
1945年の5月15日の事でした。
 みんなで夕方の掃除をしていたら突然、マイクで呼び出され、事務所に行きました。
 そして、母の涙声で、お父さんが危篤になったと告げました。
 その時にはすでに息は途絶えていたと思いますが、びっくりさせてはいけないと思い、危篤と言ったんでしょうね。
 福岡から、親戚のおばさんと一緒に、実家にたどり着いた時には、すでに父は亡くなっていました。
 あの頃は土葬でしたから、かめに入れられました。
 その時が一番悲しかった事を覚えています。
 そんな私でも、大きく人生を変えた事があります。
 それは、高校三年生の時です。
 正確には、2年の3学期から、3年の2学期までのことでした。
 なんとその1年間、学校の生徒会長になったんです。
 ほとんど役員とかやった事のなかった私です。
 いきなりの会長です。
 それはもう、怖さの連続でした。
 人前でしゃべる事なんて、ほとんどやった事がなかったんです。
 最初はいろんなヘマもやりましたし、失言もあったと思います。
 でも、慣れというのは恐ろしいもので、要領を得ると、だんだんスムーズに動けるようになります。
 そうやって、会議や行事などをこなして行くうちに、だんだんと自信がついて来たように思えました。
 二学期の終わりには、役目を終えて、全身脱力になった事を覚えています。
 そして、私の性格も変わっていました。
 そうなんです。
 初対面の人ともしっかり話せるようになっていたんですね。

 後の2年は、専攻科で、主に臨床実践と、鍼灸の勉強をしました。

 でも一つ思った事があります。
 それは、別科の人たちの事です。
 今はありませんが、当時、中学部を卒業して、2年間で、あんま・マッサージ・指圧師の資格を取るコースがあったんです。
 そう、2年間で学習を終え、資格試験に臨まないといけないのです。
 わずか16か17歳で社会に出て行くのです。
 やはり、覚悟が決まっていたんでしょうね。
 すごく大人びていたように私には見えました。
 と言うわけで、高校生時代の私について書いてみました。
 また思い出したら、色々書いて行きたいと思います。
 本日はお読みいただき、ありがとうございました。
 これからもよろしくお願いします。

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