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小学校に入るまでの思い出

私は、昭和28年の4月29日に、長崎県の壱岐郡で生まれました。
男ばかり4人兄弟の末っ子です。
生まれた時は、目が見えなかったんです。
そう、くろまなこに白い幕がかかっていたそうです。
生まれつき、水晶体が濁っていたんですね。
ですが、大学病院に行って、手術をしてもらったので、光が入るようになり、なんとか見えるようになりました。
ですが、レンズがなくなったので、物がはっきりとは見えなくなってしまったのでした。

 私は小さい時から、おとなしい子でした。
ほとんど、家の中で過ごしていましたね。
家業は農業でしたから、両親は田んぼや畑に出ていました。
お友達はラジオでした。
あの頃の午前中は、子供向け番組がよくありました。
歌のおばさんとか、お話出てこいなどをよく聞いていましたね。
私は、すえっこで視覚障害がありましたから、親は相当甘かったんではないでしょうか?
おもちゃとかお菓子なんかでも、兄たちよりは、買ってもらえていたと思います。
しかも、2人目の障害児でしたから、母のショックは、相当なものではなかっただろうかと思います。

 私の小さな楽しみの一つ。
 それは、お手伝いでした。
 私の家では、タバコを作っていました。
 タバコは、作業工程も沢山あります。
 温床を作って種を蒔き、苗がある程度大きくなったら植え替え。
そして、畑に植えるわけです。
 畑に植える前に、温床を作り替えていました。
 温床の中に、薄板で作った仕切りを入れ、その中に、苗を一個ずつ、飢えて行くわけですが、その苗床に入れる、薄板の仕切りを作るのが、面白くて大好きになっていました。
特に父は、私の作ったしきりが丈夫にできていると、褒めてくれました。
わたしはそれが嬉しくて、みんながやっていない時も、1人で作業していました。
 目が見えないと、最初からできないものとして、みんながやってくれてしまうのですが、父だけは、いろんな事をやらせてくれました。
 そんな父も、私が高校2年生の時に、病気で他界してしまいました。
と言うわけで、私は6歳で親元を離れ、盲学校と、それに付随する施設に入りました。
 それについては、改めて書いて行きたいと思います。

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