読み続ける。読まれ続ける。

これは昔、別のブログに投稿した記事です。
書き続けることについての文章でしたが、そのブログは更新しなくなって随分経ちます。今となってはシステムも古く使いづらくなってしまいました。

今回 note を開設するにあたり、何も無しに書き始めるのもなということで植え替えておこうと思いました。殺風景な庭は侘しいものですから。
当時とは Web の世界も自分を取り巻く環境も変わってしまい、結びの文句について頷けない部分もあります。それでもやはりもう一度、書き続けるような場所を用意しようと思うのです。

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ある友人と久々に会った時、

「お前の家の庭、サクランボの木を植えてたよな」

と言われた。そうだね、毎年たくさん実をつけるよ。通学路だったもんな。引っ越してしまった君は知らないだろうけど、あの後ミカンも植えたんだ。あの頃は小さかったけど、ビワの木も大きく育って、去年は実がなったんだよ。そんな話をしてると、これも昔馴染みの女の子が、

「よく散歩で通るけど、貴方の家の庭ってよくおじいちゃんが日向ぼっこしてるよね。半裸で。」

なんて言ってきて、僕らは笑いあう。

記事単位の評価なんてどうでもいい。いや、記事単位の評価を重視して判断を下すような人がどう思っているかなんてどうでもいい。どう転んでも、僕らの書く記事なんて大したものじゃない。庭に実るサクランボやミカン、ビワみたいなものだ。味も薄いし、酸っぱい。専門知識のある人が、お金や手間暇を惜しんで、人生を賭けて書いた書籍や論文に比べれば、僕らのやっていることは庭の隅っこでやってる趣味の園芸だ。

僕はひとつの記事だけで集まってくる人たちを許そう。サクランボを採る前に群がってくる雀たちを許すように許そう。そういう人が今後増えていくというのならそれもまた賑やかしにはなるだろう。

だけど、僕が求めている読者は、先の話にでてきた彼らなんだ。長らく前を通らなかった彼に伝えたい。彼女が通るたびに変化を感じてほしい。あんな小さかった木もこんなに大きくなったんだ、と。今年のミカンは形が良いね、と。こんな花も植えていたなんて気づかなかったよ、と。

内容を求めてブログを読むくらいなら本を読んだ方が良い。その二つの質には大きな差がある。あんなことを書いていた彼が、今ではこんな視点を持つようになったという、人の変わっていく様こそがブログを読む積極的な理由足りえるのだろう。


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