「知性」について 書評と正木氏のこと。

こんにちは!(はじめまして!)
ゆふいんのさとです🙋‍♂️

2回目のnoteを書きました。
今回は、前半では書評、後半では正木伸城氏について書きました。テーマは「知性」です。

私が最近、たくさん本を読んでいる方の一人が、評論家の與那覇潤さん
中でもすごく感動したのが
『知性は死なない 平成の鬱をこえて』
という本です。

その中身を紹介したいなと思って書き始めたnoteなのですが、もはやタイトルの時点でめちゃくちゃ影響を受けてしまっています😅

そして…。なんと8月6日付の聖教新聞に輿那覇氏が登場していたではありませんか❗️
大興奮してしまいました😁

輿那覇潤氏の紹介

輿那覇氏は、1979年生まれ。
肩書きは評論家であり、元・歴史学者
なぜ「元」なのか。

輿那覇氏は、博士課程修了後、2007年から15年まで歴史学者として大学の教壇に立ちました。
ところが、研究者として最盛期だった30代半ばに、重度の「うつ」で言葉の読み書きもできなくなります。
その氏が、どう知性を取り戻し、歴史学者の肩書きを捨てて「評論家」になったのか。

もともと本紹介をするほど文才のない私ですが、とりわけ輿那覇氏の著作の面白さにおいては、「とにかく読んでみて!」としか言えません笑

何重もの思索の深みと、キレッキレの筆致…。
それが、知性を奪うような病気を経験した人の文章だと分かると、胸に迫るものがあります。

今回は、かいつまんで2カ所だけ紹介✨

「属性」も「能力」も問わずに、あなたを評価してくれる人がいますか?

病気を通じて「新しく考えられるようになったこと」があると、輿那覇氏は書いています。

大学という、「能力主義」が強めに発揮される場所で働いた後に、「病気によって能力を失う」という体験をした。能力のなくなった自分なんて、いる価値はないのではないかと考えた。

しかし、そうではないと教えてくれたのが、入院時に病棟で一緒に過ごした方々だった

病棟で、はじめから自分の属性(職業)をなのる人は稀です。そもそも私は各種のカードをつくるときなども、「教員」という以外に書いたことがないおんで、病棟の面々はなおのこと、私が大学の先生だとは思っていません。(中略)
それでも、声をかけてくれる人がいる。まとまらない話をぼそぼそとでもしゃべると、うれしそうに共感してくれる人がいる。このちがいは、なんなのだろう。(中略)
属性や能力がすべてではないということ。それをうしなってなお、のこる人との関係という概念があり、自分がいままだそれにアクセスできていなかったとしても、やがてつながる可能性はだれにも否定できないということ。そういう発想を社会的に育んでいくことが、だれにとってもいまより過ごしやすい世界を、長期的にはつくるのだと考えています。
増補版『知性は死なない 平成の鬱をこえて』文春文庫 p261-264

立場や肩書きも超えて、ただ人間としてつながり合うことの大切さ。
輿那覇氏の言葉に、私が深い共感を覚えたのは、私にとって創価学会もまた、そんな世界を実現している空間であるからです。

「知識人ごっこ」への警鐘

著書の中に、はっとさせる問いかけがあります。

大学教授など、「知識ある人」の寄稿やインタビューが、無難な発言ばかりでおもしろくなかったという体験がありませんか?

これ、めちゃくちゃ単刀直入ですよね笑
そして、納得してしまう😅

でも一方で、輿那覇氏が、大学に身を置いてきた経験から言うのは、新聞であたりさわりのないことを言っている教授らが、本当につまらない人物であるということは、ほぼないということ。

どうしてそちらの「もっとおもしろいこと」のほうが活字にならないのだろうとずっと思っていて、ああそうか、「ごっこの世界」だからかと気づきました。
前掲書 p51  

ごっこの世界とは、文藝評論家の江藤淳が提唱した概念のようです。
例えば、愛国心を叫ぶ「右翼」や、非武装中立を夢想する「左翼」は、思想をぶつけ合っている対極に思えますが、自分の言葉を本気で信じてはおらず、「ごっこ」をしているだけだ、と。

これは今の日本に通ずると輿那覇氏は言います。

その上で氏曰く、もう一重の「ごっこ」がある

なぜ、知識あるはずの人たちが、面白みに欠けた無難な論調を発信し続けるのか?

一方で、新聞や雑誌には、文字にしたい自社の主張を、大学教授や評論家などの口を借りることで、権威あるものにできる
他方で、大学人や評論家は、そういうゲームに付き合うことで、社会的に承認された「知識人」という存在になれる

つまり、主張する側もそれを載せる側も、「知識人ごっこ」をしているだけだという批判です。

※輿那覇氏は、この「知識人ごっこ」は、日本でも世界でも終わろうとしていると指摘していますが、そこには今回は踏み込みません。

知の探究に対する輿那覇氏の真摯さ

今紹介したような、世の中への痛烈な批判からも分かるように、輿那覇氏の、知の探究に対する真摯さであり、誠実さに圧倒されます。

若くして准教授になり、圧倒的な知性と文才を持ち、一時期はメディアに引っ張りだこだった氏ですから、世間の流れに迎合して、一生安泰のお仕事に就くこともできたはず。

でも、その選択はしなかった。
遠慮なく、歯に衣着せぬ物言いをしてこられた。「話題の◯◯のテーマを、世間がウケるように論じる」みたいなことはしなかったのですね。

翻って、正木伸城氏はどうか

輿那覇氏の紹介だけで終わろうかとも考えたのですが、やはり触れておこうと思います。
というのも、輿那覇氏ほど真摯な探究者を知ってしまうと、「知の越境家」を名乗る正木氏への疑問が湧いてしまいます。

正木氏は、知性はともかく知識はある方だと思います。そして本人も、それを自称しているように見受けられます。

リアル初対面の人に「気さくな人だったんですね」とよく驚かれる。音声メディアやオンラインセミナー等で知識も交えつつ理詰めでも話をするから、その印象が強いらしい。知識ある人=難しい顔をした堅い人ってイメージがあるのかな。そんな事ないよ。
あとよく驚かれるのは…身長。「実物デカい!」
正木伸城氏の8/14のツイート

ご自身で「知識ある人」を名乗るのは、痛いというか、シンプルにダサいですね。

痛い理由の、その②があります。
それが、このツイート👇

勘違いしないで。何度でも言います。

自分には知識があると思った瞬間、探究心は目減りし知性も伸びなくなる。大切なのは「自分は知らない」という事実と真摯に向き合う事。知らないからこそ探求するという姿勢。知識を持っている状態よりも知識を求める心にこそ英知は備わっている。これが無知の知。
正木伸城氏の1/2のツイート

なるほど、「知識がある」と思わないことが大切なんですね。

……ん?

自らを「知識ある人」と称する人が、「知識があると思ってはいけないよ」と言う。

なんすかこれ?

実際、正木氏のツイートを読むと、こういう類の違和感がたびたび生じるんです。
言ってること、昔と今とで違いますよね?

なんでこんなことが起きるんだろうな〜と思っていた時に、思ったんです。
この人、「ごっこ」してるだけじゃん。

もう一度。
先に紹介した、輿那覇氏の著作にある「ごっこ」について、私なりに補って整理すると、

・大して信念を持っていないのに、核心ついてる風にものを言う無責任さ
・新聞や雑誌といった、「角度ある発信」をしたがる媒体のゲームに付き合うことで、自分の存在感を高めようとする

……こうした「ごっこ」の罠に、正木氏が陥っていると私は思います。

「学会の内実を知ってる人」ごっこ。

正木氏の発信の最大の特徴の一つが、「白黒ハッキリさせない」ことだと私は思います。
なぜか。
学会員にも見切られたくない。でも、アンチにも見放されたくない。
そんな感じではないでしょうか。

だから、学会員が言われて嫌がることを平気でツイートするのに、いきなり学会を擁護するような発言をしたりする。
あるいは、例えばアンチ学会からの「池田先生のことをどう思ってるのか?」といった質問には、絶対に答えません。曖昧な態度や、どっちつかずの立場が取れなくなるから。

コロコロとスタンスが変わる。
言葉遊び、「ごっこ」をしているだけじゃないですか。

明らかに他人の言葉を普通に使う

これ、気付いている人も多いかと思います。
正木氏は、哲学なのかポエムなのか、悟り目線からのツイートをすることが多いのですが、なんか聞いたことあるぞ?って感じることが多い

例を挙げてみます。

人を見てイライラする時、イライラの原因は他人ではなくあなたの中にあるかも。あなたが抱いている「人はこう振る舞うべき/こうしてほしい」といった「期待」について「裏切られた!」と感じるからあなたはイライラするのであって、最初から期待しなければイライラは発生しない。人間関係の急所だよ。
正木伸城氏の7/27のツイート
そもそも信じるってどういうことなんだろうと思いました。そして、ときにそれは、その人のことを信じていたのではなく自分が期待している人物像だったり、自分が期待している結果を望んでいただけだったりするんじゃないかな、と思いました。だから、期待を裏切られたとか、その人を信じていたのにという言葉が出てくるのかな、と
映画『星の子』に主演した芦田愛菜さんのインタビュー

この2つを比べてみて、どうでしょう?
これは読む人の主観に任せるしかないのですが、私は「瓜二つ」だと感じました。

もちろん、似たような思想を持っていて、たまたまコメントが似てしまうことってありますよね。
でもこの場合は違うんです。
かくいう正木氏が、映画『星の子』のレビューをnoteに書いていて、芦田さんの上記コメントも、紹介しているからです。(8/2の投稿)

もう一つ、例を挙げます。

大切なこと。自立している人とは「依存しない人」ではなく「依存先がたくさんある人」のことだよ。人は依存しないと倒れる。独りでは生きていけない。その事実を見据えつつ多くの依存先を持つ人は真に自立している。「迷惑かな」という気持ちもわかるけど「お互いさま」の精神で支え合えれば良いよね。
正木氏の7/22のツイート

これは、もはや……誰でも聞いたことあるような話ですよね。
代表的には、当事者研究の熊谷晋一郎さん。
Googleで「熊谷晋一郎 自立」で検索してみてください。
「自立とは依存先を増やすこと」。熊谷さんのお話やインタビューが無数にヒットします。

どうして、ここまで完コピしてしまえるのか。

可能性の一つとしては、正木氏が、熊谷さんを知らなかったということでしょうか。しかし、「弱っている人の声を拡声器のように広げる」ことを信念としている方が、当事者研究の熊谷さんを知らないのであれば、不勉強と言わざるを得ない。

もう一つの可能性は、ツイッターなので引用元を示すのを省略した、ということ。
たしかに、字数が限られた中で、引用先を示す必要はないかもしれません。

それでも、リプ欄に「素敵な言葉ですね」的な書き込みがあったのに対して、正木氏はこうコメントしているのには驚きました。

「嬉しいお言葉、ありがとうございます。私にも文章の師匠がいます。日々学んでいます。みんなで言葉の世界を耕していけたらいいですね」

白々しくないですか?
流石に、熊谷晋一郎さんのお名前を出しても良かったのでは?

実際に、ツイートの閲覧者も気付いてこんなリプをしています。(正木氏は無反応)

正木氏のツイートのリプ欄より

タンザニアのマチンガとは、立命館大の小川さやか教授の研究のことですね。

正木氏が、いいこと言ってるな〜、文章がうまいな〜と思ったら、他の人の言葉だったという事例は、調べればもっと出てくると思います。

「15,000冊」。本を読みまくった結果として、他人の言葉を自分の言葉のように使っていることに気付かないのであれば、それはすごく可愛そうだなと思いました。

最後に

正木氏の、特に最近のツイートからは、知性に対する真摯さ、誠実さを、私は感じません。とても残念に思います。

輿那覇氏の言葉を、お借りします。

属性(=元職員・幹部の息子)を問わずに、あなたを評価してくれる人がいますか

間もなく、書籍を立て続けに出版されると聞いています。
「元学会本部職員の正木伸城」なんて関係なく、専門である仏法、強みである読書術を生かして、めちゃくちゃ面白い!と思える発信をしてください。
できる方だと思っています。

お読みいただきありがとうございます😊

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