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米津玄師の楽曲「カナリヤ」MVの感想と解釈と考察

2020年11月に書いた記事を編集追記しています。

昨日(2020年11月19日に)米津玄師の楽曲「カナリヤ」がMVとして公開されました!
ので、その感想を書いていきます。

このブログでも、9月半ばに歌詞の解釈と考察を記事にしてましたが、
MVのサムネを見た瞬間に正直いって、やっぱその方向だよねー!イェーイ!っていう感じになって、ハイタッチしたくなりましたけど(笑)

でもそれだけでは留まってないのが、このMVの凄いところ。
米津さんが雑誌などインタビューで語っていた「カナリヤ」という楽曲の本質を余すところなく表現されているなと感じました。
私のは、表面をなぞっているだけだったなぁと。
この楽曲がMVになるなら、もっと二人の世界観だけになるかと考えてました。

今回のMVは、今までのと違ってリアルさを追求しているものになっているなと思いました。
割と幻想的というか夢見系というか、日常生活の営みが表現されているものってほぼなかった記憶があるので、ちょっと生々しく感じました。
私が前の記事で言葉を濁した所などもしっかり描写されていて…さすが表現者の方々!だなぁということを思いました。
だからこその是枝裕和監督だったのかなということも考えたりもしました。「万引き家族」くらいしか知らないのですが。

これは…全体的な色調が変わるなと思って考えて、「至宝のつながり」だなと思いました。
素晴らしかったです。


ここからMV全体の解釈と考察を書いていきます。
このMVには、色々な人が登場して色々関係性がぐるぐる変わっているのですが、基本的には最初に出てくる、おじいさんと亡くなってしまったおばあさんの少年少女期と青年期の紆余曲折を描いているという記述を見たので、それを元に考察していきます。

最初はおばあさんが亡くなったという知らせを受けて対面するおじいさんの場面から始まります。

「カナリヤ」MVより


そして、ここのバスケのシーンや郵便でやり取りする2人は、最初のおじいさんとおばあさんの少年少女期を表しているらしいんですよね。

「カナリヤ」MVより
「カナリヤ」MVより


そしてこの男女は、上の2人が成長した姿だということです。

「カナリヤ」MVより


ラブラブな時期もあり、

「カナリヤ」MVより

喧嘩してしまった時期もありましたが、

「カナリヤ」MVより

何とか仲直りして、ここまで2人で一緒の時間を過ごしてきたのだと思いました。

「カナリヤ」MVより

でも最愛のおばあさんが先に旅立ってしまったことで、生きる気力をなくしてしまったという意見を見ました。

「カナリヤ」MVより


ここでの画面の少女はおじいさんとおばあさんの孫娘で、かかってきた電話は、お祖父さんが亡くなったという知らせだという意見も見まして、

「カナリヤ」MVより

正直なところ、私的には前の歌詞解釈でも書いたように楽観的?というか肯定的?というか“残った人は生きていくのだろう”という見方をしてたので、すぐに受け入れることができなかったんですけど、でもそういう見方でないとMVの中の米津さんの立ち位置が曖昧になってしまうので…やっぱりそうなんだろうなぁと思ったりしました。

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そして、米津さんが白い服と黒い服で歌っているということを少し考察してみようかなと思います。

単刀直入に言うと、これは生と死を表しているのかなと思いました。白い服の米津さんが「生」で、黒い服の米津さんが「死」です。
最後のサビのところで、米津さんの背後でカナリヤが一度落ちて(死んで?)黄色い円?輪溜まり?の中から蘇るような描写があるんですが、それを見て、以前に書いた「内田樹、中沢新一「日本の文脈」〜贈与」の抜き書きの一文を思い出しました。

「カナリヤ」MVより

>人間は何もないところにぽこっと誕生したわけではなく、誰かが自分の場所を空けてくれたので、そこにできたスペースに存夜することができた。
>自分たちがここに存在するために、それ以前にそこにいた何かが姿を消した。その「もう存在しないもの」が、私たちが生き、存在することを可能にしてくれた。

つまり黒い服の米津さんが表しているものは、「死+再生」なのかなと。再生されるものは、違う人間または違う魂だと思うのですが…。
米津さんがこの本に書かれているようなことを考えてのことかは知る由もないですけど。

「カナリヤ」MVより


あと、ちょっと「アンビリーバーズ」な感じがするな…と思いました。米津玄師の楽曲で、2015/08/15にMV公開されているものです。

この曲のテーマと呼べるようなものは「否定による肯定」で、米津さんが「カナリヤ」の歌詞に込めた思いは「変わっていくことへの肯定」ということで、その繋がりからそう思ったのかなと思いました。「肯定」しか合ってないけど。それか、「カナリヤ」MVの最後の終わり方から、そう感じたのかもしれません。

それか全体的なバランスとして、「アンビリーバーズ」の方は狼(のぬいぐるみ)が爪で空間を裂いていくのが印象的なんですが、そこから突如リアルとして米津さん率いるバンドの人たちが出てくるMVなんですが、幻想的80%リアルさ20%みたいな割合だとして、

「カナリヤ」の方は、上記で書いた米津さんの役割的?立ち位置的?なものやカナリヤの描かれ方とかを考えると、幻想的20%リアルさ80%、とほぼ真逆になることから、そう感じたのかなとも思いました。


全体的な思いとしては「変わっていくことへの肯定」なんですが、白い服の米津さん(生)と黒い服の米津さん(死)とで分かれた?ことで、少し白い服の米津さんの方に「否定による肯定」の感じが見て取れるような気がしました。

「(死への)否定による(生への)肯定」という意味です。

コロナでなくても、人はいつか皆んな死ぬので、あまり意味はないものなのかもしれないですが。
全体的な色調で「至宝のつながり」と書きましたが、その「人とのつながり」は、生きている時にしか得られないと思うからです。


黒い服の米津さん(死)の方には、死や死後の、別人になるもしくは別の人が新しく生まれるという変化ありきでの「変わっていくことへの肯定」であって、
白い服の米津さん(生)の方は、あくまでその生の中での「変わっていくことの肯定」としてであって、“死”はその人生の終わり(END)であると同時に、得ることができた「その人とのつながり・至宝のつながり」をも終わらせる(END)の意味であり、そのために「(死への)否定による(生への)肯定」が強く出ている、のではないかと思いました。

エンドロールの後の最後の2回出てくる“END”は、そういう意味合いもあるのかなとも考えました。

MVに映っている川は三途の川の意味合いも含まれていて、最後に川のせせらぎの音と鳥のさえずる声が同時に聴こえてきましたが、それは「カナリヤ」に本来?の意味に加えて、このMVでは生と死の境界線を超える存在としての意味合いが持たされているから、かなと思いました。


でも、その生と死の境界線を越えてまでの“変化”には、人は耐えられない、と思うのです。

…それでも『見失うそのたびに恋をして、確かめ合いたい』と願うように、相手を自然と見つけられたら…それは凄い奇跡ではないかなと思いました。
『誰も二人のことを見つけないとしても』


曲の最後に色んな人が想いを馳せるように空を見上げるシーンがあって、白い服の米津さんも最初はそういう風に見上げていると思うんですけど、最後の方ちょっと意味合いが変わってきてる?と思えるような眼差しになっているように感じました。

「カナリヤ」MVより

目線の関係だと思うんですけど、「想いを馳せる」ように見るだけなら、そこまで黒目は端に寄らないのではないかなと思ったんですよね。すんごい細かいことをいってますけど。
空を“くまなく”見てるように感じました。それは見守るというより…見張る?に近いのかなと。
*ひょっとしたら、生と死の境界線を越えられた「至宝のつながり」を見つけたい、もしくは探していると思ったら素敵だなと考えました。

あくまで私なりの考察ですので(考えすぎってところもあると思うし)真に受けないでくださいね。

終わり。

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