終戦記念日の我が家の食卓の話

実家を出てから早8年、仕事柄今年はお盆の休暇はなく、帰省は秋にずらした。でもこの時期になると思い出す、我が家での「お盆休みの恒例行事」が幼い頃からある。

8月15日、終戦記念日。
その日の夜、我が家の食卓に並ぶのは「すいとん」と決まっている。戦時中、米の代用食として食べられていたすいとん。当時は物資が極めて少なく、味のないものだったようだが、決まって祖父が食卓に上げる。

私の実家は長野県で、祖父曰く疎開先として様々なところから子供たちがやって来たという。幼心に「遠い場所で何か恐ろしいことが起こっている」ということは感じていたという。

普段からあまり言葉数の多い人ではないが、野菜たっぷりで具沢山のすいとんを家族みんなで食べながら、毎年「昔は具なんて無かった」「腹一杯食えなかった」と呟く。そして幼い私に「もっと食え」と率先しておかわりの言葉をかけてきた。戦時中の祖父は現在の小学校にあがったくらいで、きっと孫の私と重なって見えていたのだと思う。

今年の春、同級生の子どもが小学生になった。私は独身だし、彼女が母になったとき、私はまだ大学生だった。人生って色々あると思う。でも、私でもそれくらい大きい子どもがいてもおかしくない年齢ではある。「戦争とはいえ、自分の子供にお腹いっぱいの美味しい食事を食べさせてあげられなかったら…」そう考えると胸が苦しくなる。あの頃の母親たちは、きっと自分の子供にお腹いっぱいご飯を食べさせて、温かい布団で、なんの恐怖もない夜を過ごしたかっただろうなと、ふとそう思うのです。

思春期の頃、部活から帰り夜ご飯のメニューを聞き「すいとんか…」と落ち込む私に、祖父はぴしゃりと「食べたくないなら食べなくていい。あの頃は食べたくたって食べられなかった」と叱った。私が仕事で疲れ果てて食事の時間にうっかり寝てしまった時も、母と喧嘩して食事をとれなかったときも、こっそりおにぎりを握ってくれていた祖父が「それなら食べるな」と叱ったのはその一度だけだ。呆気にとられる私に祖母が静かに戦時中のすいとんの話をしてくれた。具がなく、味のない、半個体の粉が浮いた汁の話だった。その日、具ですいとんが見えないくらいのお椀を見て、泣きながら食事をした。祖父は「もっと食え」と鍋へと歩いて行った。

戦争って、なんだったんだろうと思う。
思うのに、なんでなくならないんだろうと思う。

昨年観劇した戦争を題材にした舞台で「何もしていないのに何故召集されるのか?」の問いに「僕たちは何もしてこなかった」と自答するシーンがあった。
果たして今の私は、私たちは「何か」をしているのだろうか?そう問う日になればと思う。

#我が家の話 #終戦記念日 #すいとん

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