歩いていたら、落ちた。文字通り、落ちた。
 何も考えず、いや、家に帰ったら何をしようかと考えていた。
 たまりにたまった課題をやらなきゃなとか、ゲームの続きをやろうとか、お菓子を食べようとか、なんか特筆するまでもない当たり障りのないことを考えていた。
 そうしたら、急に足が空気を蹴って、落ちていた。
 急すぎて、ここはどこで、自分が何という名前で、どんな顔をしていて、どこに住んでいて、どういう身分なのか──一瞬、全部脳みそから吹っ飛んだ。
 すぐに思い出したけど。人間の記憶はそこまで柔じゃない。
 上を見上げて理解。なるほど、どうやら穴に落ちたみたい。青い空がかすかに見えて、穏やかな光が穴から差し込んでいた。
 ……ん?
 なんだって?穴??
 意味がわからない。外を歩くときは邪魔にならないように端っこを歩いている。
 でも、いつも通ってる道には、小さい子が落ちがちなあのタイプの用水路なんてないし、マンホールすらなかった。普通、マンホールは道の真ん中にある気がする。
 とりあえず、這い上がらないとなと思った。課題は終わってないし、デイリークエストを消化していないし、昨日あけたポテチの袋に中身がまだ半分ほど残っている。穴なんかに落ちている暇はない。
 登れるものを探して、周りを見渡してみる。
 あれ。
 ぐるーっと自分の周囲を見渡してわかったが、随分と明るい。外の明るさには劣るものの、曇りの日の学校の廊下くらいには明るい。不便しない、ちょうどいい明るさに感じた。
 ふと、変な違和感を感じて上を見る。なにかが、足りない気がした。
 え。う、うそだろ。
 落ちてきた穴が、ない。なにもない。無機質な天井が、無慈悲に、無感動に、無感情に見下ろしてきているだけ。
 どうすればよいのだろう。
 これでは助けを呼べたとしても、引き上げてもらえない。もちろん、自力で這い上がることもできなくなった。
 どうしようもなくて、何も考えられなくなった。
 人間、完全に追い詰められた時はパニックになるでもなく、座り込んで虚空を見つめ始めるというのは初めて知った。
 だいたい、パニックになる時っていうのは、もしかしたら何らかの対処法、解決法があると思っているだけだと思う。
 もうダメだと確信して仕舞えば、対処法とか解決法とか、そういうのがないと明確に知って仕舞えば、パニックも起きない。
 まあ、俗にいう絶望ってヤツだと思う。
 いや、穴に落っこちて家に帰る手段がなくなっただけで絶望ってのも変な話だけど。でも本当に方法がないからしょうがない。
 腰が抜けてしまってガクガクと震える足と腰と胴と腕──全身をなんとか動かして、いつもの数倍の時間をかけて立ち上がった。
 さて。これから、どうしようか。
 落ちた、ということばかりに気を取られていて今まで気が付かなかったが、穴は先に続いているようだった。ちょうど、モグラの巣みたいな感じで。
 なんか、もう全部がどうでも良くなっていた。
 急に焦りも消えてなくなった。無敵になったような気分だ。
 帰り道がなくなったなら課題の心配もしなくていいし、正直めんどうなデイリークエストも消化しなくていいし、半分残ったポテチはハエを引き寄せる餌になるだけだ。
 だから、穴の先になんか危険なヤツ──危ない生き物とか、ヤバい怪物とか、すごい長寿な人外とか──がいるかもしれなかったけど、別に危機感を覚えなかった。
 危機感を覚えなかったので、そのまま足の赴くままになんとなく奥に進んだ。
 機械みたいに、足をぎこちなく右、左、右、左、と動かして奥に進んだ。初めて歩くことを覚えた幼児みたいな気分だ。おかしいな、落ちてから身体機能がバグってる気がする。そこまで運動音痴というわけでもないのに。
 どれだけ奥に進んでも景色が変わらないし、暗くもならない。穴が空いて落ちた、ということは地面の下──つまり地下に落ちたということ。だから、周りには土の壁があるわけだが、その空間が異常だった。身長はそこそこあるが、かがむ必要もなくすんなり歩くことができていた。
 それからしばらく歩いたが、なぜだろう、疲れというものをこれっぽちも感じていない。今まで知らないふりをしていたけれど、穴に落ちてからどうにも身体がおかしかった。そろそろ認めなければいけない。
 深い穴に落ちて両足でしっかり着地できるのもおかしいし、どこの骨も折れてないのもおかしいし、疲れないのも喉が渇かないのもお腹がすかないのも、危機感を全然感じていないのも、全部全部おかしい。
 まるで、自分の中の常識みたいなのが勝手に改変されていて、それを自然と受け入れてしまっているかのような。
 おかしいと思っていても、足の動きは止まらない。止められない。どこか行かなければいけないところがあると身体は理解していた。それに頭がついていけていないというわけでもなく、当たり前のことのようにとらえていた。
 そのうち、だだっ広い空間に出た。
 なにもなくて、ひたすらに土の空間が続いている。
 そこに、何かが、いた。
 姿は見えないけれど、たしかにそこにいるのがわかった。
「……ぁ」
 久しぶりに声を出せた錯覚みたいな感じになった。いや、そうじゃない。今、この瞬間に初めて自分は産声を上げたのだ。
「──」
 それがゆっくりと空気を震撼させて、こちらを振り返った。だんだんと、微かに、しかし確実な存在感とともにそれが顕現していく。
 涙が、溢れてきた。なぜだろう、なぜだかわからないけど、涙が止まらない。悲しいのではない。苦しいのではない。これは、歓喜だ。
「──ああ、ようやくか」
 目が合った。ギラギラと光って相手を惹きつける強烈な生命力を持つ瞳と。それを認識した途端、すべてのことが頭から消え去った。
 終わってない課題のことも、消化していないデイリークエストのことも、昨日あけた中身がまだ半分ほど残っているポテチの袋のことも。クソみたいなつまらない日常のことがどうでもよくなった。
 今はただ、目の前の存在を感じていたい。
「──」
 気づけば、自然とそれに向かって抱きしめるように両手を広げていた。逃がしては、逃げてはいけないと思った。
 自分は、これと一緒にいなければいけないのだ。どうして忘れていたのだろう。
 自分よりずっとずっと背の高いそれが、余裕のある歩みでゆったりと近づいてきて、抱擁に応えてくれる。慈しみとともに優しく、包み込むように抱きしめられて、心臓がギュッと甘く絞まった。
「……あなたのこと、何も覚えてない。でも、自分にとってすごくすごく大事な存在だっていうのはわかる。ごめんね」
「──そうか。覚えて、いないのか」
 抱きしめられながらも、思ったことを正直に伝えるとそれは哀しみに溢れた声を出す。切なくて、胸が苦しくなった。
 それが伝わったのかはわからない。でも、それは声音を柔らかい質のものに変化させて、抱きしめながら背中を撫でてくれた。
「いいんだ。これからゆっくり思い出していけばいい。お前と俺の、輝いていたあの素晴らしい日々を」
 涙が止まらない。とどまることを知らない勢いでだばだばと両目から流れ出た涙は、それの服の肩口をしっとりと濡らした。嗚咽も止められなかった。こんなに泣いたの、いつぶりだろう。
「そして、これからも新たな思い出を俺と共に紡いでくれ」
 自分の感情が昂りすぎていたから声を出すことができなかった。それが少し悔しい。この気持ちを伝え切るにはどうしたらいいんだろう。
 どうして、自分は今までこの存在のことを忘れ去ってのうのうと生きていたんだろう。
 日常がつまらなかったのも、周りの人間や物に興味が少しもわかなかったのも、全部全部、この存在がいなかったから。
 生まれ落ちてしまった時から、どこか心に穴が開いていて空虚だったのも、この存在が傍にいなかったから。自分は、この存在がいないとダメなのに。
 さらに強く強く抱きしめて、目の前の存在がたしかに「いる」ことを確認する。安心させるように、それもより強く抱きしめ返してきた。
「もう離さない。今度こそ永遠に、この世界が終焉を遂げるまで共に生きよう。どれだけ永い時間が経っても、俺のこの気持ちは揺らぐことはない。ずっとずっと待っていた。おかえり、愛している」
 愛おしい存在から贈られた言葉に、なにも返してあげることができない。ただひたすら、暖かい体温と心地の良い心音を感じ涙を流しながら頷くことしかできなかった。
 ──永遠に二人きり。



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