戦闘論的恋情

 うちよその文の再掲
 江南世君は自宅、君飼まうらは犬さん宅


 ニケこと江南世君えなみよきみ は、生まれてこのかた恋なんてものはしたことがなかった。身の回りに転がり落ちている「戦い」に身を投じていれば毎日は満たされていたから、彼にとってその感情は必要ないものだったからだ。
 学校に行けていなかったから恋どころではなかった、というのも理由の一つである。二年前、親の勧めで私立正覔高等学校に入学したは良いが、それから体調を崩し続け二年間も留年してしまった。おかげさまで一年生は今年で三回目だ。
 だが、三回目の一年生でその感情がすべてひっくりかえってしまった。
「はあ……先輩、何してるかな」
 今ニケの頭の中の半分以上を占めているのはある男のことだった。本来ならば同学年の「先輩」である君飼まうらきみかいまうらのことをニケは朝も昼も夜もずっと考えていた。
 最近では夢にも出てくるほどで、ニケの毎日はまうらというたった一人の男のことでいっぱいだったのだ。まあ要するにニケは俗に言う恋をしていた。
 去年までは二週間に一回学校に行ければ良い方だったのに、現在では毎日元気に登校することができている。恋というのはこんなにも人間を変えてしまうのだなあとニケは他人事のように思っていた。
「う~~~、なんで先輩のことなんて好きになっちゃったんだろ」
 自室で枕に顔をうずめてニケは呻く。考えないようにしようと思っても気が付けばまうらのことを考えていて。勝手に自分がまうらのことを好きになったのに、まるで彼に縛られて逃げ出せないような気分だった。
 ニケだって恋にうつつを抜かしたいわけじゃない。いつの間にかまうらを好きになってしまっただけだ。相手が自分と同じ男だとか、神父だとかそういうのはニケにとって関係ない。
「恋がこんなに苦しいなんて、冗談じゃない」
 自分の恋に気づいた当初は、ニケの性格も相まって「恋」という戦い――いかに早くまうらの心を手に入れるか、を考えて愉しんでいた。でもそれは月日が経つにつれて甘い考えだったと痛感することになる。
 まず、恋はとても苦しい。ニケは戦いでの努力の苦しさ、上へ這い上がる苦しさ、どん底に突き落とされた苦しさは知っていた。でも、恋の苦しみは経験してきたそれらとまるで違う、新しい形でニケを苦しめてきた。
「先輩は神父だから、先輩が俺に飛びついてくるのも本能だってわかってるよ……でもひどいよ先輩、俺はアンタのことがたまらなく好きで苦しんでるのに」
 神父には本能的に嫌悪感を抱くようにできているのがニケたち人間だ。でも、不思議とニケはまうらに絡まれるのはイヤではなかったし、正直に言ってしまえば嬉しくもあった。
 自らの「王子様」を探しているまうらは、その可能性のある人間への慈愛の感情が人一倍大きい。人間への気配りもすごいし、人間が頼んだことはなんでもやってくれる。それも気に入らないが、それ以上にニケが気に入らないのがまうらのスキンシップの多さだった。
「……先輩は人間だったら『王子様』は誰でもいいって言うのかよ。この世にアンタの『王子様』は一人しかいないんだろ。その一人を必死に探してるんだろ」
 すべての人間に向けるあの慈愛の感情全てを、余すことなく自分だけに向けてほしい。向けられたらどうなってしまうのだろう。
 今のあれだけでもこんなに苦しいのに、もしすべてを自分のものにできたら――。そう考えるだけで、ニケはもだえるほどの興奮を覚えることができる。ニケはまうらのすべてが喉から手が出るほど欲しかったし、それを手に入れるのも一つの「戦い」であると考えていた。
 そう、つまり恋は闘志に似ている。好きな人の心を自分のものにすることはニケにとって戦闘同然のものだった。
「ふざけるなよ、先輩」
 先輩一人に翻弄されてたまるか。先輩も俺を追い求めればいいし、俺のことだけ考えていればいい。ほかの人間のことなんて考えるな。先輩の「王子様」には俺がなってみせる。
 あと一年。あと一年の勝負だ。先輩の卒業までに――絶対に落としてみせる。先輩の「王子様」は俺だ。
 枕から顔を上げたニケは目線を勉強机の引き出しに向けた。そのままベッドから起き上がり、鍵のかかったその引き出しを指でそっとなでる。それは、学ランの第二ボタンが大切にしまってある引き出しだった。
「これは絶対に先輩にあげるんだ。アンタなら俺の気持ち受け取ってくれるよね、先輩?」

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