【考察】天才について(手記からの抜粋)

昔からずっと人間が信じられない。


 ずっと一緒にいて、数年ぶりに話してもたわいのない会話を続けることができる幼馴染のことすらも。会話をしてお互いの意識を共有するような感覚。
 そういう感覚になれる人間がとても"合う"人間と言えるのはではないか。そういう人間は今まで会って来た人間の中から探しても、ほんの2人程度。それらの人間は幼少期に出会っていた。
 猜疑心が大きく膨らみ始めた小学生からはもうすでに素直な気持ちで人間に接することができなくなっていたので、それ以降の人間とは素直な人間関係が築けていない。
 もう一度言うが、とても"合う"人間のこともいまだに心から信じられない
 現実での彼らと仮想空間の彼らでは全く印象が違う。
 現実世界では大好きで大好きでしょうがないのに仮想空間に入った途端に怖い。なんだろう例えるなら遠距離恋愛みたいな感じ
 相手が好きで好きでたまらないのに、相手は自分のことが好きだと確信できない。まわりくどいけど、そんなことが多々。大事なものもそうだ。
 心の底から大事に思っているものなどどこにも存在しない。
 存在していると勘違いしているだけだ。それは他の人間も同じだろう。皆が信じている大切は虚無なのだ。自分の命ですらも大切ではない。第一、大切とか大事とか、そういう概念がよくわからない。ほら、またそうやって逃げる。

 

今まで登って来た階段のちょうど真ん中で出会ったアレ


 それは不思議だった。才能に溢れているのに自分ではまるでそれに気づいていない。少しかわいそうなモノ。
 自分の才能に気づかないどころか褒めてくる。自分の方がよっぽど優れていると言うのに。
 その瞳にはなにを映しているのか。その頭の中はどういう構造でできているのか。ずっとずっと不思議に思っている。
 今もアレのことは少しも理解できない。いや、きっと理解する資格がないのだろう。当時は変なモノだと思ったが離れてみてわかった。
 アレの想像力、思考力は達観している。常人からは逸脱したものがある。アレが喉から出るほど欲しがっている才能。それがすでに自分に宿っていることにアレは気づいていない。
 むしろ自分が"できない"存在であると勘違いをしているように見える。それ故に孤立してしまっているようにも見える。自分の中で悶々と他者には理解できないことを煮立たせている。たまに伝書鳩に託して思いを吐き出すが、誰にも届く事はない。
 それは一体どんな気持ちなのだろうか。常人には決して理解できない、わかりあえないその世界に住んでいるアレは一体どんな気持ちで生きているのだろう。
 誰にも理解されないとわかれば■にたくなるのも当たり前の道理というものだが、アレは違う。きっと自分を前面に表に出して強く強く生きていくのだろう。なんて、素晴らしい。
 天才とは、数学とか国語とかの学校の勉強ができる人間のことではない。そんなの時間を積めば誰にでもできるし、そもそもそれらの身につけるべき知識はもともと他者が発見したモノだ。
 そんなモノを覚えていることが天才だというのなら、それが世界の真理だというのならば喜んで首を吊ろう。この世にさよならの挨拶を献上しよう。
 そんなのが天才だと言われるなんて皮肉なものだ。気分が悪くなる。かつての師に勉強ができるだけで「天才」と言われた時は反吐が出そうになった。
 こんな自分が天才なわけがない。暗記して、それを指す言葉が紙面上に提示されて、それと合致する単語を答える。必要ならば公式とかいう型に当てはめて解を算出する。そんなのロボットですらできる。違いは、感情と自我があるかないか。たったそれだけだ。
 偽物の天才がやっていることはほとんどロボットと同じこと。既存の概念を馬鹿みたいに必死になってインプットしてそれをアウトプットすることしかできない。
 本当の天才とは他の人間にはできない、オリジナルで他のどこにもなくて他には真似できない思考ができるものだと思っている。自ら創り出すことができるのだ。素晴らしい考えを、論理を。
 なんと素晴らしいことだろう。既存の概念に縛られず自由に柔軟で新たな思想を創り出していく。それができるのは一握りの真の"天才"のみ。
 うまく説明できず申し訳ない。ただ、アレのようなモノを天才というのだろうとは断言できる。天才は"普通"の人間には理解できないモノだ。なぜならば、他には真似できない、つまり、することができない思考回路を持っているから。世界を俯瞰して見たような感じ。自分はそこにおらず外から見つめているそんな感じ。俗にいう"客観的"とかいうやつだろう。ある種の解離を生み出しているのかもしれない。
 自分は天才ではないからよくわからない。凡人が天才を語ってはいけないと思った。だから、うまく説明できない。ああ。ほら。またそう言って逃げるんだね。


アレとの関係


 僭越ながらアレは今でも心を繋いで着いて来てくれている。だが、それが少し怖くなる時がある。
 アレの行動を見ていると責められているような怒られているような気分になる時があるので。もしかしたら他のことへの怒りがアレから滲み出しているのかもしれない。でも、それが自分に向けられているものだと勘違いしてしまう。わかっているのにやめられないのだ。
 変な詮索をして、自分の言動を顧みてそれっぽいことを見つけて、■にそうになっている。
 不安で不安でしょうがないのだ。見捨てられないか。隣に立つ資格を剥奪されないかが。アレが直接攻撃を仕掛けてきているわけではない。ひたすらに自爆の道を進んでいるだけだ。
 本来ならば自分が隣に立つ権利などない。自分みたいな卑しい存在が立てるわけがない。だが、なぜか立てている。隣に立つことを許されている。これは不思議な事実だ。いつまで経ってもそれがなぜなのかはわからない。
 ところで、話は変わるが人間には表裏がある。これは確実。
 どんなに天使のような思考をしている人間でも、絶対に裏にはどす黒くて汚いモノを抱えている。
 それが自分に向けられているような感覚が常にある。被害妄想かもしれない。
 そう言われてもしょうがない。
 煌びやかな言葉をくれたとしても、それは嘘で塗り固められた虚像かもしれないから。それが"本当"であると証明する術はどこにもない。発した言葉、伝えた言葉が本当か嘘かはその言葉の創造主のみぞ知る
 そう考えるから誰も信じられないのかもしれない。どうせお世辞だろう、気を遣って言っているのだろうと。
 ガチャガチャとうるさくして強調してしているのを見ることがよくある。わざとらしい。一周回って笑えて来る。
 鍵のかかった部屋ではあんなにクールで冷たい言葉を使っているのにね。 
 本当のところ、人間がなにを考えているのかはその人間自身にもわからない。他の人間との関わりとの中で知らなかった自分の考えに気がついて今まで自分に"嘘"をついていたのだとわかることもある。
 フィクションだって完全にフィクションではない。人間が書いている以上、少しのノンフィクションが織り交ぜられて完成する。
 さらに、フィクションだと言っているからと言って本当にフィクションだとも限らない。それすらも"嘘"かもしれないからだ。表向きではフィクションというレッテルを貼り付けているが、実際はノンフィクションだということがあり得なくはない。
 裏切られたと思うのは信じていた証拠、という綺麗事の馬鹿馬鹿しい言葉がある。そもそも最初から自分が信じていなかっただけだろう。そこに裏切りもクソもなにもない。
 本当に、本当に気色悪い。なにも信じられない。気色悪い
 もっとすんなりといかないのか。そしてどうせ、考えついたことも誰かの二番煎じだ。自分だけで思いついたことなど一個もない。誰かの、真似でしかない。みんな他人事のように目を背けて生きているだけだ。
 本当の天才だけが新たな発見を、新たな言葉を見つけ出すことができる。それに縋って生きていくしか道はないのだ。ほら、またそうやって逃げて逃げて。すごくすごくみっともない。


永遠に罹患している状態


 厄介なことに結構な頻度で心臓を捧げてもらえないと情緒が狂う「病気」を患っているようだ。
 軽い気持ちで心臓を捧げて欲しい。欲しいが故にこちらも心臓を軽率に捧げているのが良くないのかもしれない。見返りを求めているようにうつる。
 人間は手に入れたモノ、手に入れやすいモノにはすぐに興味を失うものだ。だから、ほどほどにせねばと思うのだが、ついつい遣ってしまう。
 心臓をしょっちゅう捧げてくれる日もあれば、全くしてくれない日もある。そんな日は心がドブに突っ込まれたような気分になり、■を選びたくなる。
 この間の端っこは良かった。とっても良かった。大量の心臓を捧げてくれたし、紙飛行機もお互いに飛ばしあった。一緒にティータイムを楽しんだりもした。とてもとても良い端っこだった。
 だが今はどうだろう。アレの意味深な発言で精神が削られていく。子供を作り続けてもいいのかと不安になる。自分に、そんな権利はないのではないか。自分に向けられている刃ではないのかもしれない。だけど、とても怖い。
 鍵のかかった部屋の中にある箱の中でそれを叫んでも、箱の外にいるアレに届かない事は重々承知している。でも、直接顔を合わせて伝える勇気がない。臆病で、弱くて、狡くて、そして、なんと狡猾な。
 狡猾な人間が人生において大きな利得を得るのだ。だから、これで良い。これが正しい。間違ってなどいない。誤ってなど、いないのだ。あーあ。またそんなこと言って逃げていく。


はっきりしろ

 何か言いたいことがあるのなら強く伝えてほしい。
 あの子のように優秀ではないから、言葉ではっきり伝えられないと理解することができないのだ。
 お前らが考えているよりもずっとずっと出来損ないで、使えない人間なのだから。無様だと嗤ってくれてもいい。罵って踏みつけても良い。
 それでも、■に損ないの野良犬のように這いずって汚らしく意地汚く生き抜いてやろうではないか。
 他者に生きる意味を求めて何になる。自分の命は自分のためにあるというのに。そうわかっているのに、他者に依存するのをやめることができない。邪魔で邪魔でしょうがない承認欲求が蠢いているから。
 一つ言うとすれば、心と体は分離などしていない。たった一つのものだ。だが、心と体のあり方には大きく二つの考え方があると思っている。一つ目は心と体は別物とする考え方。体が■を迎えた時に魂の重さ分体重が減る、みたいなのはよく知られていることだ。魂、という概念すらも漠然としたものだ。だから魂=心という公式は成り立たないのかもしれない。
 だが、これらは近しいものだと思っている。心が■んでも、体は生き続ける。うつ病とかはそうかもしれない。また、器としての体が使えなくなっても心は残る。心と体は分離しているから輪廻転生が起こる。そういう考え方だ。たぶんね。(ここで保健をかける)
 一方で、心と体を同じものと見る考え方がある。心と体は繋がっており、どちらかが欠けた時点で残ったもう一方も滅びる。この考え方であれば輪廻転生は起こらない。
 この考え方が好きだ。人間に生まれ変わる、というクソみたいな未来の可能性が潰せるからだ。もう二度と人間として生まれたくはない。何回も逃げることを繰り返すんだね。


趣味を持とう 自信を持つんだ 他人への呼びかけ


 子供を作ることが趣味だ。本格的に始める前から、それっぽいことはそれこそ幼児の頃からやっていた。
 ただ、この手の界隈は他者に評価され、アドバイスをもらわないといつまで経っても上達しない。趣味の範囲で終わらせたいと思っている
 最悪の場合、仕事にする選択肢はなくもないが。人に指図されて、内容を定められて子供を作るのが本当に嫌いなので、仕事にしてもすぐに辞めてしまう可能性がある。
 作った子供達を他の誰かと似ていると嗤われることに酷い嫌悪感を抱く。自分ではそんなつもりはないのに、いつの間にか模倣だ、モノマネだ、■を選べと騒がれるのに殺意を覚える。
 好きに子作りをさせてほしい。別にあんたらに迷惑はかけていない。自分だけで愉しんでいるだけだ。なら良いだろう。
 子供を世間に大きく出すことも考えていない。身内だけその存在を知っていれば良いのだ。
 慢性的な希■念慮をおさめるにはこれしか方法がない。これを獲られたら確実に自■を選び実行するだろう。
 希■念慮があると言ったが、べつに本気で■にたいと思っているわけではない。現実から逃げたい。それを示すような意味で使っているだけだ。■という言葉に置き換えて物事をおおごとにしたいだけ。ただそれだけの理由だ。実際に自決することは絶対にないだろう。
 ■にたいよりも、消えたいの方が感覚としては近いのかもしれない。まだやり残したことがあるから現世に縛り付けられている。生きているのはただそれだけの理由。
 生きることに何も意味はない。必死こいて築いた資産も、作品も、愛も、何もかも灰になる。すべて、消え去ってしまう。だから生きることに何ら意味などないのだ。
 必死に生きてもがいている人間の姿は美しく、それでいて滑稽だ。そんなことを、幼い頃からずっと考え続けていたから"ズレている"と言われてきたのかもしれない。その変な"ズレ"のおかげか、新たな環境が辛くて仕方がない。
 周りの人間はとても良い人間ばかりだし、問題なく会話もできる。だが、「友」と呼べるような存在がいつまで経ってもできない。会話をしても、齟齬を感じている気がする。自分の意見が全く相手に伝わっていないのが、手に取るようにわかる。楽しくないし、幸せではない。無理矢理相手の望む自分を演じているような気分だ。
 天才はたしかに"ズレている"。だが、その"ズレ"には新たなモノを生み出せる力がある。
 しかし自分はどうだ。ただただ考えているだけだ。"ズレている"だなんて(笑)ふざけるな!
 皮肉れた厨二病を幼児の頃から患っている痛い人間ではないか。こんなに苦しいのならやはり生まれて来なけりゃ良かった。
 残りの懲役は何年なのだろうか。逃げることは悪いことでないと言う人間がいるが、所詮「逃げ」は「逃げ」だ。それに勝てなくて諦めているに過ぎない。少なくとも自分にはそう当てはまる。
 一旦逃げて形勢を立て直すのならば良い。だが、自分は完全に逃げてしまっている。それはただの弱虫、臆病者だ。■に損ないで出来損ない。失敗作。要らないゴミ。
 ――とかいう枠組みに嵌め込んで、自分を可哀想な存在にしたいだけではないか。笑える話だ。病名をつけてそれを広めたらもらえる他人からの憐れみが欲しいだなんて。ただ構って欲しいだけなのだろう。
 全く「大丈夫」なんかではない。
 そんなこと考えていないし、そんな要素は一ミクロンも存在しない。常に追い詰められているのを隠して生きている。勘違いしないでほしい。誰もがお気楽に生きていると、図り違えるな。
 この世に"本当"も"意味"も何も存在しない。だがそれ故に、この世界は美しく素晴らしい。凡人が"天才"できぬように、"天才"も凡人を理解することはできない。しかし、「それっぽく」付き合っていくことはできる。もとより、他者を百パーセント理解することなど不可能だ。ならば数パーセントの"合う"ところを探して付き合っていけば良い。自分の根本を理解してくれる他者など存在しないのだから。
 この考え、思想を理解してもらえるのは無理だから。心の底から純度MAXの信頼を預けることができる他者など存在しないのだから。自分の中で膨らませ、ギリギリまで我慢して。そして、その限界が来た暁には全てを爆発させてそのまま消えてしまおう。
 その時にアレを誘っても良いかもしれない。アレならばきっと乗ってきてくれる。アレの方がよっぽど優れてはいるが、過程的なところは似通っているように思える。もちろん、根本的なところは全くもって異なっているから、全てが一致するわけではないし意見の相違やぶつかり合いもある。
 でも、共に消えることができるなら、それが本望だ。ようやく、永遠の安寧を、最高の安寧を、手に入れることができるのだ。
 そう最近は思うようになった。またそれに挑戦するのならば、逃げることも悪いことでない。でも、再び戻って挑戦しにこなかったその時には、貴様の首を刈り取ろう。いつか来るその日を想いながら、今日もまた、奴らの脳を、内臓を、すべてを、




ここで手記は途切れている。
書いた当人は数年前に失踪、行方が分からない。
職業は売れない小説家、ほぼニートだったようだ。
家族はおらず、自暴自棄のまま私の「実験」に参加。その後行方不明。
八人。八人が行方不明。女が4人、男が4人
情報がある人は研究所まで連絡を。私の息子とその婚約者も行方不明だ。

所長 柳瀬徹


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