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黒羽根どもを墜とせ

冬でもここ木曽山中の落合宿周辺は人の往来が絶えないと聞いた。だがいま街道の石畳にあるのは散った紅葉だけだ。
しかし十日もしないうちにあの悪名高い天狗党千人余りがここを通るだろう。

尾張藩士の春原鉦三は道端の石仏の前で腕を組んでいた。中肉中背、その管笠の下の顔は若い。古びた手甲に、膝下が脚絆になっている裁着袴の旅姿。そして羽織は右肩が盛り上がっていた。
道端に座る辰吉は煙管を吸っていた。その腰には博徒らしく長脇差を指している。
「兄貴遅えな、大遅刻もいいとこだぜ」
「何事かあったかもしれない。心配だ」
「やめてくれ春原の旦那。縁起でもねえ」


木々が風もなく揺れた。鉦三は管笠を上げ石畳の先を見た。
「どうかしやしたァ?」
「何かいる」
辰吉は立ち上がり、キセルの灰を捨て手をかざした。

枯れ枝の下、石畳の向こうから二つの影が見えた。影が大きくなるにつれ声が聞こえてきた。
影が二つに分かれた。いや、二体の影が離れたのだ。片方の影、質素な着物が裂けた男は悲鳴を上げ倒れた。
辰吉の手から煙管が落ちた。
「なんだア…ありゃあ?!」
倒れた男の上で影が浮かんでいた。否、影ではない。
墨汁を集めたような真っ黒な人型の“なにか”だ。その背には真っ黒な羽が生えていた。


尾張のお使い番は鉦三に命を下した。
木曽の民が天狗党ではない別の天狗に襲われているらしい。別の天狗とやらを調べよ、と。
あれが別の天狗というものか。


空中の羽が生えた人型の影の手が伸び、倒れた男の頭部を掴んだ。影の頭部が下弦の三日月のように裂ける。
考えている暇はない。鉦三の羽織が翻った。
「辰吉殿、援護を頼む!」
「アァ?援護って」
辰吉は怒号を飲み込んだ。
落ちる羽織をはねのけ見たことがない西洋銃が飛び出した。装填済みのエンフィールドP1853。エゲレスの最新鋭の施条銃。
鉦三は胸元の雷管盒から素早く雷管を取り出し銃に装着した。黒い人型の化け物に向けて構え、撃鉄を上げた。


【続く】

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