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二○十九、二十、

惟うに、二十歳という年齢は、燦々とした憧れを抱かせて画期的な精神の変容を期待させるものだった。
穏やかに波を打つ水面に投影された曖昧な景色を水中から覗いた時の像のようであり、輪郭などはまるでなく、不安定なリズムで揺らめきながら姿を主張してくる「何か」に、二十歳になる直前までは確かに手が届きそうだった。

その水面から無意識に這い上がって以降、暫くの年月が経過したにも関わらず、
その「何か」が果たして何であったのか、という答え合わせを怠り続けて現在に至ってしまった。
タバコを喫んで、酒を飲んで酔っ払って、ハッピーになっていたら、一瞬で月日は過ぎ去り、二○二十年を迎えてしまったのだ。更にはこの先、三十歳を過ぎたら、四十歳を過ぎたら人生はあっという間の一瞬だということで口を揃えられ、追い討ちを掛けられる頻度も増えた。

二○二十年現在までの一瞬の間に「何か」が自分の手の中に収まっていないことで、その得体の知れなさに拍車がかかる。
もしかしたらこの先には、希望の芽などが生える余地は毛頭ない、ツルツルしたフローリングの床のようなものが未来に向かって陸続きになっている可能性が頭をよぎる。

そんなことを考えながらやっとのことで気がついたのは、その一瞬の時間が「何か」を与えてくれると過度に期待していたことでそれを喪失してきたということだ。
無論、時間が経てば得られるものになんて価値はないことをはっきりと自覚しているはずだったのであるが。

過去も未来も一瞬で過ぎ去ってしまうこと自体は至極当然だ。数学の定理だ。
今までもこれからも時間は残酷すぎるほど一瞬で過ぎていくから、もう頼って縋るようなことはやめる。
もう一瞬には縋らない宣言。

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この年末年始は、今年一年分を見溜めるかのようにテレビ番組に時間を費やした。その中で、あの新宿の地下の錆びれたライブハウスで行われていたお笑いライブで見かけた宮下草薙をこれでもかというくらいに頻繁に見た。
おそらく、彼らは一瞬の中で「何か」を掴みかけているのであろう。

その一方で、掴むことができなかった者がその周りにそれ以上に多くうごめいているはずだ。

「いつもそうなんだ。この出来損ないの指でシャッターを押したんじゃどうしても間に合わない。手に入る寸前で、こぼれてしまうんだ。分かるか学生。本当に欲しいものはな、欲しいと思ったその瞬間に捉えないと、すぐに何処かに行ってしまうんだよ」
 (引用:原田宗典 「十九、二十」 [新潮文庫])

原田宗典の「十九、二十」で、もう金輪際写真を撮らないと宣言した根子谷洋司が吐くこのセリフが、現在進行形での喪失をリアルに浮き彫りにしている。
その後、根子谷は飲み干したカップ酒を捨てるのと同じようにカメラを捨ててしまい、もう二度と姿を現さない。

いま自分が感じているものの正体はこの喪失感であり、「何か」とは「欲しいもの」(実現したい目的とか理想)であって、この喪失感がその存在を裏付けるものだと盲信している。
ただし、そのイメージは未完成どころか、そもそもイメージもできていないし、もちろん明確に言語化もできていない。
でも、これは根子谷も同じはずだ。

「シャッターを押したのは俺だ。焼かなくても分かるさ。たとえその写真の出来がいいとしてもだ、それは本当に俺が欲しいものとは違う。」
 (引用:原田宗典 「十九、二十」 [新潮文庫])

客観的に定義された「欲しいもの」があることで挑戦するのではなく、反芻するという意味ではその逆だと考える。
頭の中にあるうちはその全てが傑作になってしまうから。
根子谷の場合は、シャッターを押しながら反芻していく中で、自分が欲しいものが見つかり、出会い、手に入れる機会が生まれるのであり、その逆ではない。

今の自分に必要なことは、この反芻の渦中に自分を置くために、たとえ形にならないものであっても吐き出しまくることだ。
 自分自身の何日もしくは何年かの、血であり肉であったはずの、自分の躰の一部を吐瀉物として撒き散らしてこそ、そこから有機物が拡散する可能性が僅かに宿るのではないか。
誰かがつくった既存の文脈をなぞっただけでは、任意の蛇口から集めたコップ一杯の水道水のようなもので、氾濫し続ける情報の海にそれを投じても何も生じ得ない。

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二○十九年から二○二十年へと変遷し、10年代から20年代に変容する節目。
年末の紅白歌合戦のMISIAはセンセーショナルだったし、年始の東京事変の復活のお知らせに心踊らされた、俺の高揚感が叩いた、書き初め! 

二十歳も二○二十年も、ただの節目でしかない。
「欲しいもの」を与えてくれることは有り得ないということを体に刻み込んだ上で、この節目をきっかけにするための書き初めだ。 

ここ数年の間、キリが良い数値(一年間意識しつづけることが可能になる)でおいた行動目標を一年間の最低限の目標をしてきた。
これは、一年が一瞬であることを嘆く暇をなくしながら、常にその時間の短さを鮮明に想像するための仕組みとしては効果的ではあった。
今年の最低限の目標のあくまで一つとして、12本(1本/月)はnoteを書くことを設定しようか。
まずは、くだらないことでも訳の分からないことでも吐き出しまくることから、リハビリを始めていきたい。

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